貨客船→空母へ 「隼鷹」進水-1941.6.26 航空戦力つないだ「名リリーフ」
旧日本海軍の空母「隼鷹」が1941年の今日、進水しました。当初は貨客船「橿原丸」として起工しましたが、後に空母へ改造され、ミッドウェー海戦で喪失した空母戦力を補完。沈没することなく終戦を迎えています。
空母化を見越して設計された「橿原丸」
1941(昭和16)年の6月26日は、旧日本海軍の航空母艦「隼鷹」が進水した日です。「隼鷹」は同型艦「飛鷹」とともに、貨客船を転用し建造された空母でした。「隼鷹」の元となったのは日本郵船の「橿原丸」。同船は当時、日本最大の貨客船でした。1939(昭和14)年3月に起工しますが、機関室などは当初から、空母への改造を見越していました。
1945年の秋、佐世保にて撮影された空母「隼鷹」(画像:アメリカ海軍)。
竣工は1942(昭和17)年5月。特設空母という位置づけでしたが、日本の空母として初めて、艦橋と煙突が一体化した大型艦橋を採用しています。なお、これは大戦後に登場した大型空母でも多く見られる構造です。
初陣は同年6月、北太平洋のアリューシャン列島への出撃でした。艦上爆撃機や艦上戦闘機を搭載し参加しますが、大きな戦果は挙げられませんでした。ただ、同じころ北太平洋で展開されたミッドウェー海戦において、日本は空母4隻を失う大敗を喫したことで、「隼鷹」は急きょ主力に準じたポジションに引き上げられます。
「隼鷹」は7月、当時最新だったレーダー(電探)を導入し、同じころ竣工した「飛鷹」などともに第2航空戦隊を編成。ミッドウェー海戦で枯渇した航空戦力をつなぎとめました。
10月は南太平洋海戦に参加。発進させた艦上機がアメリカ軍の空母2隻を撃沈・大破させたのと引き換えに、日本は数多くの機体のほか、ベテランパイロットを失いました。
飛行甲板には艦載機ではなく…
翌1943(昭和18)年、「隼鷹」は南方と本土を往復し、主に物資輸送任務に従事しました。その間には、壮絶な戦いが繰り広げられたガダルカナル島の撤収作戦にも参加。しかし11月には、日本近海にてアメリカ軍の潜水艦による雷撃を受け損傷、広島県の呉軍港へ帰投しています。
修理後の「隼鷹」は1944(昭和18)年6月、マリアナ沖海戦に参加します。20日、アメリカ軍の艦上爆撃機による空襲を受け被弾。燃料に引火し火災が発生します。大破した「隼鷹」は4日後、山口県岩国市沖にある柱島泊地に帰り着きました。なお、この海戦で日本は空母3隻などのほか航空機も400機以上を喪失し、またしても大敗北を喫しました。
さらに同年10月、旧日本海軍は史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦でも敗北、これにより日本の空母機動部隊は事実上、壊滅してしまいます。その結果、「隼鷹」にはもはや搭載する航空機などなくなり、以降はほぼ“輸送艦”としての任務しか残っていませんでした。皮肉にも広い飛行甲板は、物資輸送にうってつけだったといえるでしょう。しかし、その最中の12月、台湾から本土へ向けて航行中にアメリカ軍潜水艦の攻撃を受け被雷。あわや沈没と思われたものの、なんとか長崎港へ帰投しました。
「隼鷹」は修理を受けますが、再び出撃できる状況にはありませんでした。敗色はますます濃くなり、燃料や物資も欠乏したことで、空母の出番はもはや無きに等しかったのです。
終戦後も復員兵の輸送任務に従事することはなく、「隼鷹」は1947(昭和22)年に解体されました。しかし貨客船として誕生した艦ながら、沈没することなく戦争を生き延びたのは、幸運だったといえるのかもしれません。