都営地下鉄の最北端にある三田線の西高島平駅。埼玉との県境まであとわずかの場所で、線路はポツリと途切れています。かつてはその先、埼玉県内への延伸が計画されていましたが、なぜ頓挫したのでしょうか。

和光市側のマックは「駅前」だったかも?

 総延長109kmにも及ぶ都営地下鉄の路線図の中でも、ひょっこり北西に飛び出ている三田線の末端区間は否が応でも目立ちます。その終点、西高島平駅(東京都板橋区)はどの鉄道駅からも遠く離れ、目の前の交差点の先や、すぐ北側に流れる荒川を渡ると、そこはもう埼玉県という位置です。乗降客数は5000人少々と、板橋区内にある他の三田線の駅の半分程度とあって、日中はとても静かです。
 
 しかしこの駅からは、大手町・日比谷など都心に直通する列車が、朝晩のラッシュ時には1時間に20本以上は発車していきます。さらに相鉄・東急直通線の開業(2022年度予定)によって新横浜・海老名方面への直通も加わる見込み。直通で移動できる範囲が広く、始発駅からであれば高確率で着席を狙える高島平エリアは、不動産の“穴場”として扱われることも増えてきました。どのような街なのか、まずは西高島平駅に降りてみましょう。


三田線の新型車両6500形(伊藤真悟撮影)。

 西高島平駅近辺では、ファミリー層向けの中古マンションが3000万円台でゴロゴロ見つかるなど、東京23区内にしてはかなりお得感があります。とはいえ、それらの多くは駅からやや離れています。駅の南側には幅員30mを越える高島通り(都道447号)があり、北側には倉庫やトラックターミナルなどの物流拠点が集積しており、駅の近くには居住できる空間があまりありません。

 そうしたこともあり、駐輪場の稼働率はかなり高いようで、平日朝には駅北側の荒川にかかる笹目橋で、川向こうの埼玉県戸田市から西高島平に向かう自転車もよく目にします。

 この駅が開業したのは1976(昭和51)年のこと。当時から大きく手を加えられていないためか、白地に青文字のゴシック体で書かれた「お忘れもの承り所」の看板や、淡いピンクのタイルが敷き詰められたコンコースなどに独特の“昭和感”が漂い、眺めていて飽きません。

 鉄道の高架がスパッと途切れた先には、一転して“クルマ社会“が立ちはだかります。目の前には首都高5号池袋線の高架、その下は国道17号新大宮バイパスであり、徒歩や自転車でここを越えるには急なスロープを登って排ガスにまみれたスクエア状の歩道橋を渡る必要があります。交差点から400mほど西へ進めば埼玉県和光市ですが、そちら側にはガストやマクドナルドなどがあるため、外食店舗が少ない西高島平駅側から自転車で“都県境越え“する人も少なくないとか。

 ただ、これら和光市側の店舗も、もしかしたら「駅前」になる可能性があったのです。

「東武高島平線」 計画はなぜ消えたのか

 現在の三田線が建設される前、高島平と和光市は鉄道でつながる計画が立てられていました。のちに浦和・大宮とつながる可能性も出るなど、変わり続けてきた「西高島平駅の先」のこれまでを検証してみましょう。

 都営6号線(現在の三田線)の巣鴨〜志村(翌年「高島平」に改称)間が開通したのが1968(昭和43)年。鉄道の用地は高島平団地の西端、現在の西高島平駅の先まで確保されていました。この時点で、高島平〜西高島平(計画上は「三園町駅」)を含む区間は、東武東上線の支線(通称「高島平線」)として整備される予定でした。

 1956(昭和31)年に大和町(現・和光市)が発行した都市計画図によると、町内では現在の「笹目通り」の北側を並行し、途中駅は笹目地区の「吹上観音駅(仮)」(現在のホンダレインボーモータースクール和光周辺)、新倉地区の「新倉駅(仮)」(下氷川八幡神社の西側)の2か所。三田線に直通することで、池袋駅手前で混雑率260%を示していた東上線の乗客を分散させようとしていたのです。


西高島平駅の西側で三田線の高架は途切れる(宮武和多哉撮影)。

 さらに三田線から東急の新線「泉岳寺線」を経由しての大井町線・田園都市線へ乗り入る計画もあり、末端の東武・東急に合わせて都営地下鉄では唯一の狭軌(線路幅1067mm)で建設されました。もし乗り入れが実現していれば「上福岡〜和光市〜高島平〜大手町〜二子玉川〜長津田」などの長大な乗り入れルートが実現していたかもしれません。

 しかし東武としては、池袋エリアを通らないとあって、グループ内で異論が噴出。同社は会社の存亡をかけ、池袋の国鉄への乗り換え改善や戦後のヤミ市からの再開発で数十億円を投資してきました。何よりこのルートでは、都心に出るまでにかなりの迂回を余儀なくされます。

 東武鉄道は1964(昭和39)年に高島平線の免許を取得、大半の区間で買収を済ませたものの、8号線(現在の東京メトロ有楽町線)の池袋・成増延伸が具体化すると「(高島平延伸の)価値が薄れる」と警戒感をあらわにし、1972(昭和47)年には和光市に計画の撤回を申し入れます。

東急もNO! 住民大激怒! 結果としての今

 さらに東急も乗り入れ先を銀座線に変更(後に半蔵門線に再度変更)したことで、6号線は両側から“ハシゴを外された”格好に。その後、有楽町線の延伸による東上線との相互直通運転が1987(昭和58)年に実現し、「東上線のバイパス」は有楽町線ルートで完成したのです。

 東武が高島平線の建設から手を引いた時点で、東京都側での高島平〜西高島平間の建設も凍結されてしまいます。しかし鉄道の建設を前提で移住していた団地の西側(高島平4〜7丁目)の人々は、駅の開業を想定して家を買っていただけに納得がいきません。その声を受けて東京都は都内区間の免許を譲り受け、1976(昭和51)年に高島平〜三園町(西高島平)間がようやく開業を果たします。


高島平駅は東武・都営地下鉄の接続駅として計画された名残で、2面4線と広めに作られている(宮武和多哉撮影)。

 その後は運輸省や専門家で構成する「都市交通審議会答申」で荒川の北岸(戸田市西部・浦和市・大宮市)への延伸計画が記載されるなどの動きがあったものの、1985(昭和60)年には似たようなルートで埼京線が開業。その後の動きはなく、中央分離帯部分が空いていた新大宮バイパスには高架の首都高が開通しました。

 こうして三田線は都県境を目の前にして途切れ、西高島平駅の先で断面を晒して途切れたままなのです。ただし東京都側では都市計画自体が残っているため、都の資料では今でも「都市高速鉄道」と用途が定められた土地が、和光市との都県境へ向けてまっすぐ続いています。

これからも永遠の穴場? 幻の延長区間の今をバスでたどる

 東武の高島平線が計画されていた区間は、これと並行するように「笹目通り」が整備されています。この道路は環八通り(環状8号線)につながる外周道路の一端とあって、自動車・トラックが駆け抜け、歩道でその風圧を感じるほどです。

 この周辺を走るバスは東武バス・増07系統(宮本循環線)などがあり、多くは成増駅を発着しています。バスが通る都県境付近の住宅街は古道や坂道、カギ状のカーブが極めて多く、開発はあまり進んでいないことがわかります。なお鉄道未成線の名残はほぼありません。

 また三田線の延伸先として浮上していた戸田市南部からは、同じく国際興業バス・増14系統(下笹目〜成増駅)が運行されています。しかし乗務員不足によって2020年10月に大幅減便が行われ、朝晩のみの運行に。和光市側・戸田市側とも、高島平エリアへの流動はもうそこまで大きくないようです。

 高島平団地も入居開始から半世紀が経過し、地域の高齢化が避けられないようになってきました。スーパーが集積している高島平駅エリアへの移動が困難な人も多く、すでに「とくし丸」などの小型巡回スーパーが存在感を増しています。また団地そのものもバリアフリーに対応した建て替えが進み、将来的には短距離移動が目的の小型モビリティ導入を検討するなど、高齢化社会に向けて対策が進められています。


下笹目から荒川を渡るバスは大幅に減便された(宮武和多哉撮影)。

 このほか、周辺には鉄道・バスから遠い地域も依然として残り、西高島平駅から徒歩で15分かかる板橋区立美術館などは、2019年のリニューアル以前、「遠くてゴメン」「永遠の穴場」といったキャッチフレーズの垂れ幕を掲げ、むしろ立地を逆手にとっている感すらありました。

 とはいえ、前出の通り周辺から自転車で西高島平駅まで移動する人はかなり多く見られます。そのメリットは、やはり「着席で通勤できる」ことでしょう。これからも終着駅であろう西高島平駅周辺エリアは、「永遠の穴場」として、今後もコンスタントに注目を集め続けるのではないでしょうか。