1950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲で朝鮮戦争がはじまりました。米韓軍を中心とした国連軍が北朝鮮軍と戦うため、日々消費される膨大な物量を支えたのは、兵站基地となった日本の鉄道輸送網でした。

占領下の日本 混乱の中で運行された進駐軍列車

 1950年に勃発した朝鮮戦争は、いまなお朝鮮半島の社会、そして世界情勢に大きな影響を与え続ける出来事となりましたが、当時の日本はこの戦争の特需によって戦後復興の第一歩を踏み出すことになりました。このとき、太平洋戦争で大きな被害を受けた国鉄が、朝鮮半島への軍需物資の輸送に大きな役割を果たしました。


現在の横浜・日本郵船ビル(日本郵船歴史博物館)。占領下、ここにアメリカ第3鉄道輸送司令部(第8010鉄道輸送司令部)が置かれた(樋口隆晴撮影)。

 太平洋戦争が終わったときの国有鉄道(運輸省鉄道総局の国有鉄道)は、線路被害1600km、駅舎焼失198か所、各種の被害を受けた車両は、機関車891両、貨車9577両、客車2228両、電車563両、職員の死者1250名、負傷者3153名という大きな被害を出していました。

 しかし、それは主として都市空襲に付随する被害で、基本的には主要駅や操車場などがピンポイントで狙われることはなかったのです。事実、8月15日に玉音放送を受けて多くの人々が呆然自失となるなかでも、各列車は定時運行を保っていました。

 こうした状況にあった鉄道は、進駐してきた連合軍(ほとんどがアメリカ軍、イギリス連邦軍が少数)の接収するところとなり、日本各地に駐屯する連合軍の兵站を支える貴重な補給ルートとなりました。

 アメリカ軍は、横浜の日本郵船ビル(現在の日本郵船歴史博物館)に入った第3鉄道輸送司令部(1950〈昭和25〉年1月より第8010鉄道輸送司令部)が、札幌、仙台、東京、京都、北九州にDTO(鉄道輸送地区司令部)を置き、さらにその下に主要駅226か所にRTO(鉄道輸送事務所)を配置して鉄道をコントロールしていました。一方、イギリス連邦軍は、岡山、呉、下関に輸送統制司令部を置いていました。

 この体制で、連合軍は多くの鉄道車両、天皇・皇族の乗る御料車も含めて接収し、連合軍特別列車を走らせていたのです。その数は1945(昭和20)年度で個人輸送が延べ545万人に上りました。

 当時は、復員や海外からの引き揚げ民間人のために多くの臨時列車を出す必要があった一方、地域の鉄道は郊外へ買い出しに向かう人などで、列車は常に過剰すぎるほどの客を乗せていました。窓から出入りする人や、連結器の上などに乗る人もいました。

 もっとも、占領行政が落ち着いてくると、連合軍向けの列車の数も少なくなります。その運行本数は少なくとも、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発までは漸減 傾向にありました。

日本が兵站基地になった朝鮮戦争

 しかし、朝鮮戦争が始まると状況は一変します。まずは日本国内のアメリカ軍将兵と備蓄された軍需物資を朝鮮半島に送り、さらに日本はアメリカ本国などからの中継拠点となりました。占領下の国鉄は、進駐軍のためにフル稼働することを迫られました。

『鉄道終戦処理史』(日本国有鉄道)によると、北朝鮮軍が侵攻を開始した翌日には、宮城県の陸前山王駅から横浜の瑞穂(埠頭)駅に弾火薬を積んだ貨車14両からなる臨時列車を走らせています。さらに翌々日の27日、第8010鉄道輸送司令部は、朝鮮半島から引き揚げてくる民間人のために汐留貨物駅の3番ホームを開けることを、29日には関門トンネルを含めた全路線で火薬類輸送の制限解除を国鉄(昭和24年に発足した公共事業体)に命じました。

 朝鮮戦争勃発から2週間で臨時軍用列車の本数は245本、客車7324両、貨車5208両を要したと記録にはあります。これは太平洋戦争中にもなかったほどの本数で、鉄道省や運輸省の下部組織だった頃も含め、国鉄軍事輸送の最高記録だったそうです。


釜山に陸揚げされるM4シャーマン戦車(アメリカ陸軍)。

 こうした輸送の結果、アメリカ本国からの増援分もふくめ、7月15日には韓国には概ね6個師団ほどのアメリカ軍兵力が展開しました。しかし勢いに乗る北朝鮮軍の攻勢は押しとどめられず、国連軍(米韓軍主体)は、朝鮮半島南端の釜山を中心にした地域へ押し込められます。もうこれ以上の退却は韓国を失うことになります。8月、「釜山橋頭堡の戦い」で知られる、釜山円陣の戦闘が始まりました。

 このような状況で、占領下の日本は、朝鮮半島に対するもっとも近い兵站基地としての機能を負わされたのです。

「レッドボール・エクスプレス」出発

 国鉄は日本国内各所から朝鮮半島への玄関口となる北九州各港湾へ、さらには爆撃へむかう在日アメリカ空軍の横田、立川、岐阜、芦屋、板付の各飛行工場へ武器・弾薬・軍需物資を送り届けましたが、GHQはさらに第8010鉄道司令部を通じて、急行軍用貨物列車の運行を命じました。

 当時、アメリカ軍の輸送の中心は、京浜地区でした。とくに横浜駅から、赤レンガパークがある新港埠頭をへて大桟橋の間、現在MM21地区として知られる1980年代後半に再開発された地域は、港湾と鉄道輸送の重要な結節点でした。ここには多数の線路が敷かれ、貨物駅も、瑞穂(現在も埠頭の大部分はアメリカ軍が使用)、東高島、高島(車両基地となる高島機関区と操車場も併設)、表高島、東横浜、横浜港(旅客駅でもある)と狭い地域に蝟集していました。

 このうち、桜木町駅の北に隣接する東横浜駅は、第8010鉄道司令部や第8軍司令部(横浜税関ビル)からほど近いこともあり、なかば在日アメリカ軍専用駅となっていました。


横浜エアキャビンから桜木町駅方面を望む。この奥の一帯が東横浜駅だった。右は同駅から横浜港駅に通じていた貨物線を歩道化した「汽車道」(乗りものニュース編集部撮影)。

 そして、横浜港、そして京浜工業地帯にある各埠頭駅に陸揚げされた軍需物資のうち、緊急性が高い物を、この東横浜駅に集め、九州の佐世保までノンストップで運行、そこから専用の貨物船で釜山まで運ぶという陸海一貫の急行貨物便が設定されたのでした。それが「レッドボール・エクスプレス」、国鉄側は「ロケット急行便」と呼ぶ列車でした。

 レッドボール・エクスプレスの愛称は、おそらく第2次世界大戦の後半、フランスで行われたパットン第3軍への専用道路を使った自動車輸送を念頭においたものでしょうが、もともとはアメリカの大手配送会社の名前でもありました。

急行より俊足!? 貨物列車レッドボール・エクスプレス

 レッドボール・エクスプレスに使用された貨車は戦前に「宅扱い便(駅から配送先まで一貫して届ける便)」用の急行貨車として製造されたワキ1形、または1949(昭和24)年から製造が開始されたワキ1000形でした。前者は25トン積みで最高速度(牽引速度)85km/h、後者は30トン積みで時速75km/h。これに貨車と車掌車を兼ねるワムフ1(15トン積み)かワムフ100(15トン積み)を付けて列車を組みます。

 史料から復元するとワキ1形で編成された場合は14両+ワムフで365トン、ワキ1000形で同じく14両435トンでした。当時の貨物列車はD51蒸気機関車を使用した場合800から900トン程度の貨物を牽引できましたから、この数値からも速度を重視していたことがわかります。おそらく積荷は緊急性の高い、小銃、機関銃、迫撃砲弾薬に医療品、携帯口糧、ドラム缶に入れた車両用燃料が主体だったと思われます。


ワキ1形とワキ1000形(イラスト:樋口隆晴)。

 さて、レッドボール・エクスプレスは、23時30分に東横浜駅を出発、いったん鶴見まで北上し、そこから東海道本線〜山陽本線〜鹿児島本線〜長崎本線〜佐世保線を経由して翌々日の5時42分に佐世保へ到着。その後は12時30分に佐世保出航、翌日4時に釜山に到着というダイヤが組まれていました。

 レッドボール・エクスプレスの所要時間は佐世保まで28時間12分です。この頃の時刻表を調べると、1952(昭和27)年から限定的に日本人が利用できるようになった東京発佐世保行きの急行連合軍特別列車が28時間22分、1956(昭和31)年11月から走るようになった東京発佐世保行きの急行「西海」が24時間37分で佐世保に到着していたので、レッドボール・エクスプレスが貨物列車としていかに速かったかがわかります。この列車が、貨物の多い日には3本出発することもあり、また出発駅も浜川崎や新興(横浜市神奈川区、廃止)からの便がありました。

 その後、アメリカ軍の仁川(インチョン)上陸で戦況が好転すると、レッドボール・エクスプレスは隔日出発となりましたが、この列車こそが釜山円陣を支えた陰の功労者であり、また“巨大兵站基地”日本の血管となった国鉄の象徴ともいえるでしょう。そしてこの朝鮮戦争の特需を契機として、日本は戦後復興への道を歩み始めるのです。