北米シアトル航路に投入され、現地の人々にも好かれた貨客船「氷川丸」。現在は産業遺産として横浜市の山下公園に係留され静かな余生を過ごしていますが、戦争中は海軍病院船として幾多の危険な航海を乗り越えてきました。

シアトル航路に就航した最新型の貨客船

 戦前日本の花形外国航路は、なんといってもサンフランシスコに向かう北米航路でしたが、それと並ぶほど重要だったのがシアトル航路です。シアトルの街は「グレート・ノーザン鉄道を父に、日本郵船を母とする」という言葉があるように、船と鉄道の結節点となる比較的新しい港湾都市です。世界的に見れば、東洋貿易の中継港としての地位にありました。
 
 このシアトル航路に日本郵船が最新型の貨客船として1930(昭和5)年に投入したのが、『氷川丸』『日枝丸』『平安丸』の3隻の同型船でした。1万1622総トン(積載重量1万436トン)で、一等76名、二等96名、三等186名と貨物を積むことができるこれらの船は、戦時には軍が徴傭(チャーター)することを前提に、国からの補助を受けて建造されたものです。


日本郵船の博物館となっている氷川丸(画像:写真AC)。

 氷川丸クラスで特徴的なのは、北太平洋を渡るために外板を他の船よりも厚い15mmとし、舷窓は全て防水性の高い丸窓に、かつ船底を二重底、船体を6つの水密隔壁に区切っていることです。このため海事保険のロイド船級協会によって最高クラスの格付けがされていました。

 エンジンは、経済性の高いディーゼルですが、ピストンの燃焼室が上下に付くことで小型高馬力が達成できる複動式8気筒4サイクルディーゼル2基(デンマークのB&W社製)を搭載していました。これで約34km/h(18.21ノット、航海速力15ノット)の速度を出すことができました。

 むろん客室区画は豪華で、フランスの業者によって流行のアールデコ調の内装を施していました。

「軍艦氷川」とも呼ばれたワケは…

 さらに『氷川丸』の特徴として、クルーの規律が大変厳しかったことがあげられます。これは初代船長秋吉七郎の方針であり、このため氷川丸は「軍艦氷川」とさえ呼ばれたほどです。厳しい規律は、乗客に質の高いサービスを提供することになり、『氷川丸』は現在でいうセレブ層に人気のある貨客船となりました。

 乗船した著名人はチャールズ・チャップリンが有名ですが、秩父宮夫妻や、日本のスポーツ振興に活躍した加納治五郎が乗船したことでも知られています(加納は肺炎のため船上で逝去)。当時、アメリカとの関係が険悪な状態だったにもかかわらず氷川丸の処女航海では3万人の見学者がシアトル港を訪れ、「ハイカワ丸」の名でシアトル市民に親しまれました。

 一方、貨物輸送においては、往路では外貨獲得の主要産品であった生糸を、復路では機械部品や屑鉄などを運びました。貴重な生糸にはシルク・ルームと呼ばれる専用の貨物室があてられました。

海軍特設「病院船」になる

 1941(昭和16)年に日米関係が悪化してシアトル航路が閉鎖されると、『氷川丸』『日枝丸』『平安丸』は当初の予定どおり、そろって海軍に徴傭されました。このうち『日枝丸』『平安丸』は特設潜水母艦に改装されましたが、『氷川丸』は病院船となりました。船体を白く塗り、緑の線を入れ、赤十字を舷側、ブリッジ、煙突、ボートデッキ上に描き、さらにハウストップの煙突後方には周囲に赤いイルミネーションを施した十字の布板を付けました。

 この改装工事は12月1日から21日までの短期間に行われたため、完璧とは言い難く、その後も改造が行われたことが甲板部記録簿に残っています。改装後の設備には、病院船ならではものとして遺体安置所と火葬施設が設けられました。

 さて、病院船はジュネーブ条約やハーグ条約により敵味方を問わず負傷者を救護することから、中立・安全を保障されていましたが、やはり激戦地を行く以上、危険が伴いました。実際に病院船となった『ぶぇのすあいれす丸』が米軍機の爆撃で撃沈されるなど、陸海軍合わせて40隻ほどの病院船が戦没しています。

『氷川丸』も銃撃や爆撃を受けたことがあり、スラバヤ港外、ルオット水道(クェゼリン環礁)、シンガポール海峡の3か所で機雷の被害にあっています。それでも無事に過ごせたのは、北太平洋の荒波に耐えるための厚い外板や、“軍艦”と形容されたほどの高い規律ゆえのものだったとされています。なお、同型船の『日枝丸』は特設運送船に転籍したあとトラック環礁に向かう途中で、『平安丸』はトラック環礁で、それぞれ戦没しました。


病院船時代の『氷川丸』(樋口隆晴作図)。

 もっとも、日本軍は病院船で将兵や軍需物資を運ぶという、赤十字の規定に反する行為を再々行っていました。一番有名な例は、第五師団の将兵を病院船橘丸で輸送中に拿捕された橘丸事件ですが、『氷川丸』もシンガポールから重油とともにパイロットや航空機整備員を運んだり、さらには暗号書の輸送に使用されたりしています。

 そんな状況下でも『氷川丸』は、東はタラワから南はソロモン諸島のブインまで、本来の役割である傷病兵の輸送に活躍し、3万名にのぼる戦傷病者を運び続けて、舞鶴港のドッグで終戦を迎えたのでした。

戦後シアトル航路へ再就航 乗っていたのは?

 終戦を迎えた『氷川丸』に、休息のときはありませんでした。第二復員省(旧海軍省)に傭船され、1945(昭和20)年9月から翌年まで復員輸送に使用されたのです。

 とくに補給が断たれたマーシャル群島のミレから飢餓状態の2700名を復員させたのは病院船ならではの仕事でしょう。復員船として『氷川丸』は7航海で約2万名の海軍将兵を復員させました。さらに氷川丸は一般邦人の引き揚げにも活躍。その任務を解かれたのは1947(昭和22)年1月12日のことでした。

 その後、『氷川丸』は外国航路が閉鎖されていることから北海道航路に投入され、また不定期便として南アジアなどにも航海しました。

 本来のシアトル航路に『氷川丸』が復帰したのは、1953(昭和28)年のことでした。このとき『氷川丸』は、フルブライト委員会(日米教育委員会)からの要請をうけ船内の一部をアメリカンスタイルに変更し、旅客定員を一等34名、二等をツーリストクラス、三等をAとBの2つに区分しました。

 こうして7月28日、貨客船としてシアトル定期航路に12年ぶりの復帰を果たします。ただ、今度はセレブたちではなく、多くの留学生を乗せることとなりました。『氷川丸』に乗船したフルブライト留学生には後にノーベル物理学賞をとる小柴昌俊、同じく化学賞の下村 侑、国連事務次長となる明石 康がいます。また1959(昭和34)年にはアメリカ公演のために宝塚歌劇団のメンバーが乗船しました。


山下公園に係留される『氷川丸』。往時と同じ塗装だ(樋口隆晴撮影)。

 しかし時代は、飛行機による旅客輸送と専用船による貨物輸送に移り変わっていました。1960(昭和35)年、日本郵船は客船事業から撤退(現在はグループ会社の郵船クルーズが「飛鳥II」を運行)。『氷川丸』も同年8月27日に最後の航海へ出航したのです。

 その後、『氷川丸』は観光施設として横浜市の山下公園に自走できない状態で係留され、2003(平成15)年には横浜市有形文化財の指定をうけました。2007(平成19)年には日本郵船が買い取って、翌年には往時の姿を偲ぶ海事博物館、産業遺産としてリニューアル・オープンして現在に至っています。2016年には、重要文化財指定を受けました。


※一部修正しました(6月20日9時35分)。