「真珠湾で日本がハワイ占領していたら…」が絶対にムリだったワケ 旧海軍も頭を抱えた力の差
太平洋戦争に関する論調で、日本がハワイを攻略できれば戦争が有利になったという意見があります。ほかにも開戦当初の真珠湾攻撃でハワイを占領すべきだったというものも。本当にそんなことが可能なのか考えてみます。
ハワイに造られた強固な要塞群
太平洋戦争は実質的に、1941(昭和16)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃で始まったと言われています。このとき旧日本海軍は、空母6隻からなる機動部隊の空襲を仕掛け、アメリカ戦艦4隻を撃沈・大破させるなどして、大打撃を与えました。
こうした戦果から、戦後、「真珠湾攻撃時に日本がハワイを占領し、アメリカ本土を脅かせば、戦争が有利になったのでは」という論調も多々見受けられます。しかし、本当に日本がハワイを占領することはできたのでしょうか。開戦時のハワイの防衛体制を振り返って、実施可能かどうか見てみます。
旧日本海軍の空母「翔鶴」の飛行甲板に並んだ零式艦上戦闘機(画像:アメリカ海軍)。
太平洋戦争前からアメリカはハワイの防備に力を入れており、1907(明治40)年よりカメハメハ要塞、翌年には真珠湾海軍基地を建設しています。ハワイの要塞化はその後も続きルーシー要塞も建築され、1921(大正10)年には406mm要塞砲を備えたウィルソン砲台まで完成しています。
この406mm砲は、オアフ島の全周にわたって砲撃可能な性能を有していました。当時、アメリカ最新鋭のコロラド級戦艦に搭載された45口径406mm砲を上回る、長砲身の50口径406mm砲で、最大射程は40.86kmを誇りました。
この射程は、日本が建造した大和型戦艦の46cm砲の射程約42kmと大差なく(地上設置のため、より長射程という説も)、加えて要塞のため、ほかにも356mm砲や305mm砲、178mm砲といった大・中口径砲が数多く備えられていました。
しかも要塞砲は、弾着観測を行う観測塔を高くでき、かつ艦艇のように動揺することもないので、戦艦などに比べて命中率に優れています。また、戦艦はどこに砲弾が当たっても損傷しますが、要塞砲は「砲自体に命中」しない限りは破壊できないため、艦砲で無力化するのは困難といえるでしょう。
なお、太平洋戦争の開戦時、大型砲については装甲板で覆われていない露天構造だったため空襲で破壊は可能だったものの、中口径砲はコンクリートでしっかりと防備されており、破壊は困難でした。旧日本海軍はミッドウェー海戦に勝利した後、ハワイ攻略を行う計画を立てていましたが、作戦実施の予定時期である1942(昭和17)年10月時点では、大口径砲にもコンクリートの天蓋(てんがい)が設置されたため、艦砲でも空襲でも破壊はかなり難しくなっていたと思われます。
たくさんあり過ぎなハワイの飛行場
ハワイ諸島に上陸作戦を行うなら、ほぼ無防備な輸送船団をハワイまで無事に辿りつかせる必要があります。前述したように要塞砲の無力化は困難ですが、それにも増して航空戦力の無力化はより困難だったといえるでしょう。
オアフ島に限定しても、航空基地は陸軍所属3か所、海軍所属4か所、海兵隊所属1か所の計8か所あります。アメリカ軍は旧日本海軍の真珠湾攻撃で347機を失っていますが、なお75機が健在でした。また、ハワイ近海にはアメリカ空母2隻が行動中で、この航空兵力も無傷でした。真珠湾の艦艇も巡洋艦以下は健在でした。
太平洋戦争末期の沖縄戦で物資を陸揚げ中のアメリカ輸送艦艇(画像:アメリカ海軍)。
1942(昭和17)年から始まったガダルカナル島の攻防戦では、旧日本海軍が戦艦によってアメリカの飛行場を砲撃していますが、完全破壊することはできず、砲撃後に飛び立った少数機による空襲でも、日本側は輸送船団に大損害を被っています。
日本空母は航続力の関係で、ハワイ近海に史実以上に留まるのは困難でしたから、ハワイの航空兵力を無力化することは、極めて難しかったでしょう。加えて、オアフ島にはレーダー基地が6か所設けられており、開戦時にほぼ奇襲となった第一撃以外は、日本側兵力の接近は確実に対応されたはずです。
開戦時でも航空兵力の無力化が困難であったことから、ミッドウェー海戦に勝利した後ではさらに困難を極めることは間違いありません。実例を出すと、1943(昭和18)年11月から始まった南部太平洋ブーゲンビル島の戦いのなかで、アメリカ軍は密林を3週間程度で航空基地に変えています。それから鑑みると、仮にミッドウェー島を日本が占領したならば、その後、アメリカ軍はハワイ占領の危機感から、同諸島の平地に短期間で多くの航空基地を開設すると考えられます。
2022年現在、ハワイ諸島には民間空港を含めて、19か所の飛行場があります。最低でもその程度の数の滑走路を同時に破壊しなければ、制空権を確保できないといえるでしょう。
なお、アメリカは1942(昭和17)年中に護衛空母を8隻就役させているため、仮にミッドウェー海戦で日本がアメリカの正規空母を3隻すべて撃沈できたとしても、戦闘機などの小型機はアメリカ本土とハワイの間でピストン輸送可能です。大型爆撃機については航続距離が長いため、直接、本土から空輸されるでしょう。
陸上兵力はどれくらい必要?
なお、開戦時のハワイには2個師団が配備されていました。太平洋戦争末期の沖縄戦を例に出すと、アメリカ軍は沖縄本島を攻略するにあたり、本島配置の日本軍2個師団1個旅団などに対して、7個師団を投入していますが、圧倒的な航空兵力+戦艦による艦砲射撃という自軍有利な条件ながらも、攻略に3か月を要しています。
つまり、アメリカ軍でもこのような状況ですから、日本軍がハワイを攻略するのは、極めて難しかったと考えられます。仮にハワイ攻略にあたって、奇跡的に日本軍輸送船団が無傷で到達・上陸できたとしても、オアフ島は沖縄本島より3割ほども大きく、また隣のハワイ島は四国と同じくらいの広さがあります。そして日本側は空母が帰還した後、航空兵力ゼロで戦うことになるので、隣の島に移動することすら、困難だと考えられます。
ミッドウェー海戦前の1942年5月11日、航空機を載せて太平洋を航行する空母「エンタープライズ」。左後方に続くのは給油艦「サビーネ」(画像:アメリカ海軍)。
開戦時にハワイを攻略するなら、史実の南雲機動部隊とは別に、要塞砲を制圧する戦艦部隊と、守備側の3倍となる陸軍6個師団を輸送できる大輸送船団が必要になるでしょう。南方作戦に投じた陸軍兵力の倍ですから、この作戦だけで日本の保有燃料の大半を消費し、大規模増援は送れなくなります。ちなみに、ハワイ攻略に戦力の大半を投入することになるため、史実通りの南方作戦は行えなくなり、そうなると東南アジアの油田などを占領できなくなることから、燃料確保の見通しも立ちません。
あと、ひとつの意見として「真珠湾攻撃時に燃料タンクを破壊していたら」という論説も見受けられますが、真珠湾の燃料タンクは総計で52個もあり、それらが3か所に分けられ、トータルで72万キロリットルの燃料が貯蔵されていました。タンクは一つ一つ区切られており、誘爆などの被害拡大は望めそうにありません。
加えて、アメリカ軍には複数の給油艦からなるタンカー部隊が複数ありました。たとえば第8役務部隊の場合、この部隊だけで洋上給油能力を持つ給油艦10数隻を保有しており、総数13万キロリットルの燃料を運べたといいます。こうした複数のタンカー部隊でハワイに常時、燃料を届けていたのです。つまり、仮に燃料タンクの破壊に成功したとしても、アメリカ側は給油艦群で対応可能だったといえるでしょう。
結論として、日本は太平洋戦争開戦時でも、また仮にミッドウェー海戦に完全勝利したとしても、ハワイ攻略は極めて困難だったと考えられます。ちなみに戦前、旧日本海軍もハワイ攻略を検討したことがありますが、「連合艦隊のすべてを投入しても攻略は不可能」という結論に至っていたそうです。