※この記事は2017年09月20日にBLOGOSで公開されたものです

東京都内の北西に位置する、練馬大根でもお馴染みの練馬区。大昔からの行楽地・石神井公園や東映撮影所がある大泉なども練馬区にある。

ここ最近、区内の商店街を歩いていると目にする『練馬独立70周年』の文字。

「独立!?」

1947年にお隣の板橋区から独立して、今年で70年を迎えている。

それにしても『独立』って。戦後の日本国内において、独立なんて暴力的な表現が使われることがあるんだと驚き、そしてニヤついてしまう。

「大げさなんじゃない?」

第二次大戦以降の現代史は学校の授業ではあまり取り上げられない箇所なので、もしかすると私が知らないだけで、練馬と板橋の間で血で血を洗う独立戦争が行われたのか?

虐げられた練馬の人々が沢庵漬用に天日干ししておいた、細くて長い練馬大根を手にとって立ち上がり、板橋になだれ込んだ。干してムチのようにしなる練馬大根は降り回すとブンブンと風切り音を唸らせて、板橋勢をブンブン打ち崩した。ブンブン、ブンブン唸りを上げる練馬大根の前に板橋勢はなすすべもなく、練馬は独立を手にした……

そんなストーリーを妄想してみた。

本当のところはどうなのか、練馬区内の図書館で調べてみると1987年刊行『練馬区独立40周年記念 練馬区小史』の冒頭には、

「練馬区の独立」

練馬区の誕生という言葉で表現するのが適切のようにも思うが、40年前、練馬区が板橋区から分離独立するのには、正に「生みの苦しみ」といってよい程の過程があった。

いったい何があったのか、探ってみたい。

板橋区役所は遠かった

明治維新後の東京は何度も行政区画が変わり、昭和7(1932)年10月1日に東京市の35区制がスタートしている。その時、現在の練馬区は、お隣の板橋区の中の一地域『板橋区』に含まれていた。

この東京市の措置に対して35区制度が始まる直前、昭和7年5月の段階で練馬町周辺の8か村は、板橋区ではなくひとつの区として独立させてほしいとの陳情書を提出している。さらに2ヶ月後の7月には旧・北豊島郡役所を板橋区役所とすることに対して練馬地域各地で反対集会が開かれた。

制度がスタートする前から、なぜ反対運動が起こったのか?

それは、板橋区役所が練馬から、とーーっても遠かったから。

板橋区役所が置かれた旧・北豊島郡区役所は、旧・板橋区の中でも東の端っこ。

東西に広い練馬から、これまた広い板橋の東の端の区役所まで移動すると、現代でも結構遠い。例えば21世紀の今、練馬の西の端の保谷駅や武蔵関駅から板橋区役所まで電車で移動すると、およそ1時間。それが昭和の初期なんだから列車の本数だって少ない。さぞ不便だっただろう。
『板橋区役所まで自転車で行き来しました。電車だと西武新宿線なので午後いっぱい使うことになるので自転車で行ったものです』
『一番困ったのは、税金を(板橋)区役所まで納めに行くのに税金よりも交通費の方が余計にかかったこと』
当時のボヤキが『練馬区史』の中の『独立当時を回顧する座談会』で伝えられている。

35区制を検討した東京市案では『(板橋と練馬は)地域広大なりといえども、当分の内、特に合して一区となすを適当なりとす』と示し、ゆくゆくは分離してもいいよとの含みをもたせている、と読み取ることもできよう。

ただ35区制は一区あたり平均14万人と、人口を基準に分割したため、板橋と練馬を足して人口11万人だった当時は『板橋区』として1つにまとめられた、そんな船出であった。

『板橋区』が誕生したあとも、練馬地域からはせめて板橋と練馬全体の真ん中に区役所を!と要請し続けたが、叶えられることはなかった。

というのも、板橋区役所の置かれた場所は下板橋宿。板橋といえば川越街道の起点で、板橋自身が東京市の中でも昔から栄えた土地だったのだ。

それに比べて当時の練馬は野菜畑が広がる農村地帯で、人口に至っては昭和7年当時、板橋町が8505人に対して練馬町は1733人と圧倒的に板橋が優勢だった。人の多いところに区役所を置く。これはいたしかたない。その代わりに練馬地区には『練馬派出所』と『石神井派出所』2つの区役所出張所が『板橋区』発足と同時に設けられることになった。

それでも練馬地域からのボヤキは止まらない。
『(派出所ができても)微々たることで直接区役所に来なければ用事が果たせず』
『練馬の西部方面から板橋区役所に行くには2回も電車を乗り換え、しかも往復58銭も交通費がかかるありさま』
練馬の人々は動かない行政とどう対峙したのか。

当時の58銭は今の価値でいうと1500~1700円くらい。交通費としては高い。

何とかしてほしいと練馬地域住民の要望を受け、地元選出の加藤隆太郎区議らが中心となって、せめて練馬地域派出所の業務拡大と大幅な委譲を求めた。が、話が進むことなく10年余りの月日が過ぎ、やがて太平洋戦争が始まり、住民の意向も制約下におかれるご時世に。

そんな中、東京市は東京府と内務省の二重監督を解消しようと地方制度の改革を行い、昭和18(1943)年7月、府と市が一体化した『東京都』が誕生している。

同年9月には都議会議員選挙が実施され、加藤隆太郎区議は都議会議員に当選。独立運動の場を東京都にも求め、翌昭和19年1月、都議会で練馬地域住民の不利不便を訴え、練馬・石神井派出所を合せた一区独立を提言している。すると…。

大きいところで叫んでみるものである。

大達茂雄東京都長官は練馬地区の深刻な問題を改めて知るところとなり、早速調査・処置したいと応じ、民生局長に実情調査を指示している。

この頃、練馬では独立を目指す地元団体『練馬区設置期成会』が結成され、会長には元陸軍少佐の中村四郎太氏を迎えるなど時節への細心の注意を払い、都の実情調査の受け入れや期成会幹部による大達都長官への再三に渡る陳情を行っている。

やれる限りを尽くして昭和19年5月、練馬区派出所が板橋区役所の練馬支所に昇格し、待ちに待った独立への道筋が整ってきた。 と思われた矢先。

同年7月、頼みの大達都長官が小磯國昭内閣の内務大臣の職に就くため長官を辞任。さらに追い討ちをかけるように、戦局は日増しに厳しくなり、内務省は東京都に対して(土地の)境界等の廃置分合は一年間停止の通達を出した。 

これで区市町村の分離統合は一時棚上げとなり、練馬の独立運動も一旦休止となってしまった。

昭和20年8月、終戦。

翌21(1946)年7月にはGHQ主導で民主化を進めてきた政府は、地方制度改革4法を国会に提出、可決された。

この地方自治の法整備の流れを受けて、練馬地域では独立運動が再燃。

今度こそは!と、練馬区設置期成会では会長に加藤隆太郎都議、副会長に上野徳次郎板橋区議と、幹部に練馬地域選出の議員を据え来るべき時に備えていた。

一方、板橋区会でも練馬地域選出の議員たちによって練馬の分離独立の動議が提出され、練馬区設置の意見書が可決されている。

この頃、戦災によって東京都の人口は800万人から400万人に半減。都心部の空洞化と郊外へのスプロール化が進んでいったため、東京都では35区から区の数を縮小する再編成が大きな課題となっていた。

そこで東京都長官の諮問機関 東京都区域整理委員会が立ち上げられ、区の数をどこまで絞り込むか話し合われた。その委員58人の中に、練馬区設置期成会会長の加藤隆太郎都議がメンバー入りを果たしている。

戦時中は時節を考慮して軍人を期成会会長に据えたが、戦後はこちらから乗り込んでより大きな力を借りる、中央突破を狙う作戦に出たのだ。

練馬区設置期成会は東京都区域整理委員全員に懇請書を発送。『練馬区独立は当地住民の多年の翹望』と、首を長くして待ち望んでいたことを切々と訴え、加えて練馬管内2万3千世帯の連判状も揃えている。

ところが!

東京都区域整理委員会は35区を22区にと回答。練馬地域は板橋区に編入されたままとなっていた。

手紙や連判状では効果がない……。

となると直接会って話をした方が手っ取り早い。

練馬区設置期成会メンバーは安井誠一郎都長官や区域整理委員会の小委員会メンバー19人に対して陳情を行い、さらに東京都の各区会議長や内務省への働きかけを間断なく行い、猛運動を展開した。

さらに今回はもっと大きなところをと、GHQも訪問している。

地方制度改革を推し進めるGHQならきっとわかってくれるはず。

東京都をも動かしてくれるはずと期待に胸膨らませ、丸の内まで出向いたことであろう。

ところが。

『説明の中に『独立』と出てくるので、被占領地下の日本からの独立かと誤解されピストルを持ち出されてすごまれた』

独立戦争や南北戦争を経験しているアメリカさんは「何ぃ⁉」と。

のちのグラントハイツ・アメリカ空軍家族宿舎として接収していた地域が『独立』すると言い出したのだから、そりゃ慌てたはず。

その翌日、GHQ担当者が練馬支所まで赴いて、事の次第をじっくり取り調べして帰っていったと記録されている。

この時の陳情に行ったメンバーは『独立じゃなくて分離と言っておけばよかった~』と、恐怖体験を語り伝えている。

そんなすったもんだを乗り越えて、東京都区域整理委員会では練馬区設置を容認する方向へと話が向かっていた、そんな時に事件は起こった。

練馬大根とともに勝ち取った独立


昭和21年11月18日。

世田谷区の玉川地区住民が独立を求めて東京都区域整理委員会に大挙して陳情にやってきたというニュースが駆け巡った。東京都が35区を22区に圧縮しようとしている流れの中で、またひとつ独立を求める地域が出てきたのだ。

まずい、まずすぎる。

同年12月。東京都区域整理委員会が安井誠一郎都長官に提出した答申には、練馬を加えない『22区案を適当と認める』とあった。

案の定。 この時、芝・麻布・赤坂区が港区に統合させる東京都案を地元が否定するなど各地で不満が噴出していた。このような混乱もあって、練馬区新設については22区成立後、また日を改めてということになった。

こうして昭和22(1947)年3月5日、東京都は正式に22区制を告示している。

ただこの時、オトナの事情が働いたようで、東京都は練馬区独立に関しては容認の方向に舵を切っていた。告示1週間後の3月12日、安井都長官は牛田板橋区長に対して、練馬支所管轄区域を分離独立することを板橋区会に提案するよう求めている。

翌13日、板橋区会が招集され、練馬地域の分離独立が可決した。

やった、ついに独立!

とはいかないのが、今回の話。

可決はされたが、東京都22区が発足する3月15日まで残り2日。

たった48時間で新しい区の手続きが整うはずもなく「残念ですが、時間切れ」という形で、練馬地域は板橋区として22区制がスタートしている。

まさか時間までが邪魔するとは。

このがっかり感、察して余りある。

ただ、ツキはまだ残っていた。

昭和22年4月5日に行われた板橋区長選挙は牛田正憲氏が初代公選区長として当選し、同じ日に行われた東京都長官選挙では安井誠一郎氏が公選により第8代都長官に就任している。練馬地域にとっては事情が分かっているふたりが引き続き板橋区と東京都のトップに就任。

ラッキーが重なった。

この年の4月は新体制に基づく選挙が集中して実施され、国政選挙に続いて4月30日には都道府県区市町村会議員選挙も行われた。板橋区議会議員選挙では定数45のところ練馬地域からは19名が当選。過半数には至らなかったものの4議席増やす躍進を見せた。

そして昭和22年5月3日、日本国憲法と地方自治法が同日施行されている。すると今度は新地方制度下において、改めて練馬地域の独立を確認する手続きが必要になった。

もうやだぁ…と腐らなかった練馬の先人は偉い。

昭和22年8月1日 ついに練馬区が独立


7月1日、ついにこの日がやってきた。

板橋区議会で上野徳次郎議員から、練馬区新設促進に関する緊急動議が提出され、起立多数で可決された。

でも喜ぶのはまだ早い。

独立が成ったあと、板橋・練馬それぞれの税負担が増すのではないか。

心配事はそこに集約されていった。

そこで独立推進派は『もともと財源の多くは都からの交付金で賄われているので、練馬が区として独立したからといって急に負担が増えることはない』と説明し、練馬・板橋両地域はこれで納得した。

練馬区設置期成会は最後の詰めにかかった。

代表者は独立促進大会の決議文を携え、食糧難の時代に練馬大根など地元の野菜を大量に用意。トラックの荷台に詰め込んでは有力政治家たちを夜討ち朝駆けで陳情し続けた。

この時の『実弾』として使われた練馬の名産・練馬大根といえば江戸時代、徳川5代将軍綱吉が病気療養中に大根の種を練馬で栽培させた練馬大根伝説が有名で、将軍家からも大切にされている誉れ高い作物であった。また当時の朝鮮通信使は練馬大根を江戸土産として持ち帰り、日朝友好にも一役かっている。明治期には沢庵漬けとして海外にも輸出されるなど、日本全国のみならず海を渡って地域を支え続けてきた練馬大根。それが戦後は独立運動をも助けるとは。

大根、すごいぞ!

話を戻して、食糧事情の悪い中、煮てよし漬けてよしの練馬大根が陳情先の人々の胃袋を大いに刺激したことは想像に難くない。

昭和22年7月22日。

ついに内務省から板橋区に特別区設置に関する区議会の意見を提出されたしとの通達がきた。そこで開催された区議会では板橋地区選出議員からも賛成の意見が多数上がった。

『担税の問題で練馬独立に躊躇しましたが、板橋よりも練馬・石神井の方が担税力が強いということで安心しました。よって本案に賛成』

練馬は土地持ちが多かったから。

これで話はまとまった。

昭和22(1947)年8月1日、東京都23番目の区・練馬区が誕生した。

今でも虫の音が響くのんびりした練馬区にも、15年もの長きにわたる住民運動で独立を勝ち取った激しい時代があったとはと、改めて驚かされた。

「板橋からの独立」というワードにぷっと噴き出していたが、ごめんなさい。地元の歴史を調べる機会を得て、今では練馬を誇りに思う。

さて、今回はマンパワーと大根で成し遂げた練馬独立を振り返ってみたが、次は経済面から練馬の独立を後押ししたものは何だったのかを検証してみたい。

またいずれ近いうちに。