※この記事は2017年09月11日にBLOGOSで公開されたものです

お笑い芸人からフリーライターに転進した一人の女性の物語

9月2日、人生色々大変だった女性の結婚披露宴に行ってきた。新婦の氏家裕子さんは元芸人で現在37歳のフリーライター。キャリアは10年。ここでは「夢の諦め時」を知り、「地道な信用作り」をやり続け、「いつも笑顔で」を心がけた彼女をホメたい。地べたを這い、くすぶっていた一人の女が少しは「マシ」な業界に入り込み、今では編集・ライター業界からの信頼感をある程度勝ち得て「絶対にできないと思っていた!」と本人がしみじみ語る“結婚”に至った話をする。写真はお色直しの際、なぜか私が新婦のエスコート役に指名され、檀上に上がった時のものだ。

披露宴で発表されたプロフィールとWikipediaによると、彼女はこんな流れで2007年まで活動してきた。千葉県館山市の高校を卒業した彼女は演劇系の専門学校に入り、そこで出会った同級生とお笑いコンビを組むことに。ホリプロのお笑い勉強生になった後、2002年12月(23歳)からお笑いコンビ・「金魚ばち」としての活動を始めた。コンビ名「金魚ばち」の由来は、たまたま氏家さんが金魚鉢の携帯ストラップをつけていたところ、マネージャーから「それでいいだろ。お前らのコンビ名は“金魚ばち”だ」と言われたことにある。

ホリプロのNo.1芸能人といえば和田アキ子だが、和田の冠番組である『アッコにおまかせ!』(TBS系)のアシスタント業務のほか、リポーターとしての活動も行った。お笑いコンビ・たんぽぽの川村エミコはホリプロの同期である。

結果的にお笑い芸人としての活動は花開かず、2007年夏、実家の館山に帰ってあぜ道を歩いていたところふと「もう辞めようかな」と思い、同年7月31日をもってコンビは解散し、氏家さんは芸能界を引退した。相方はピン芸人となり、その後舞台女優になった。

結婚式の司会(ホリプロ同期で現吉本興業所属)によると「コンビを解散した1ヶ月後、“師匠”となる中川淳一郎さんに出会い、ライターとしての活動を開始しました」とのこと。2ヶ月半後ぐらいじゃないかな? と思いつつも、まぁ、大した差ではないのでこのまま進めるが、彼女と私が出会ったのは2007年秋のことだった。きっかけは、雑誌『テレビブロス』編集者の木下拓海君からの電話だった。

「なーかーがーわーさーん、なんか、お笑いをやっていたという女がブロスの仕事をしたいと突然やってきたんですが、さすがに仕事もあんまりないので中川さん、一度会ってもらえますかぁ~?」

一体なんのこっちゃと思ったら、私が2005年まで編集者を務めていたブロスの仕事を引き継いだ木下のもとに、氏家さんから電話があったというのだ。編集部で電話を受けた木下は氏家さんからこう言われた。

「私は今無職です! 便所掃除でもなんでもいいので、ブロスで仕事をさせていただけませんでしょうか!」

ブロスの編集部には、全国各地からフリーのライターや編集者から売り込みの電話や封書が多数寄せられていた。氏家さんからの電話はそうした中の「ワンオブゼム」みたいなものだったのだが、「元芸人」という肩書に木下は引っ掛かった。とりあえず、当時のブロスのO編集長と木下は氏家さんに会ったが、正直未経験者ができるような仕事はない。そこで、私に話が来たのだ。

「なんで編集業界の人たちってこんなに優しいんですか!」

この頃は、ネットニュースの黎明期にあたる。もちろん、新聞社や通信社系のニュースをネットで読むのは一般的になっていたが、あくまでも「おまけ」的な扱いだった。2006年にJ-CASTニュースが登場し、ITメディアニュースやZDNet、C-net、オモコロ、デイリーポータルZ、独女通信などはあったものの、まだまだネットメディアは今のように隆盛を極めていない。

そんな中、私もアメーバニュースの編集者として毎日12本の記事を入稿していたのだが、慢性的な人手不足に悩まされていた。紙メディアのギャラが高い時代で、さらに彼らからネットメディアは見下されていた。当時、私は「1文字10円」で仕事をフリーライターや学生に発注していたのだが(現在は文字量関係ない定額制になっている)、紙メディアの人からすると「安過ぎる」と断られる状況にあり、人員の確保が急務だった。雑誌記者の中には「企画が通らない」とストレスを抱えている人もおり、そういった人々はこの安いギャラで仕事を受けてくれていた。「好きな記事が書けて嬉しいですよ!」と彼らは語っていた。

そんな状況で出会ったのが氏家さんである。とにかく週に1回、私の事務所に来て隣で記事を書きまくるよう依頼をした。採用の決め手は「性格が良さそう」「根性がありそう」ということに加え、「生活に困っている」「貧乏のツラさとお金の重要性を知っている」だった。文章が上手か下手かはどうでもよかった。編集者の仕事はライターが書いた原稿を直すものだから、名文は求めないし、内容が正確であればよかった。また、芸人だった経験を活かし、芸能界の裏事情等もエグくない形で書くことも依頼した。この手のネタについては彼女以外には書けないだろう。

彼女がオフィスに来る日は当初は木曜日だったが途中から日曜日になり、2年半ほど経過したところで在宅ワークに切り替えた。もう隣で指導をする必要はないと判断したのだ。日曜日出勤の頃は2人で昼食を食べながら、NHKの『のど自慢』を見てツッコミを入れては楽しんでいた。

アメーバニュースのライターを始めて以降、私は彼女『日経エンタテインメント!』の編集者に紹介をしたり、サイバーエージェントの別の仕事を一緒にやるようになった。『日経エンタ』では、直接の編集担当・O氏と少し仕事をしたようだが、その後、現日経BPヒット総合研究所上席研究員で『日経エンタ』編集委員の品田英雄氏に気にいられたようで、『日経トレンディ』関連の仕事をするようになり、いつしか『日経ウーマン』の仕事も始めていた。アルバイト情報誌『an』でも連載ページを持つようになっていた。今回の披露宴で新婦側の挨拶をしたのが、同誌の編集者・加賀谷睦氏だった。彼女はこうスピーチした。

「裕子さんとの付き合いはもう8年になります。彼女のすごいところはこれまでに1回も締め切りを破ったことがないことです。当たり前のことじゃないか、と思うかもしれませんが、それができる人はあまりいないのです。こちらはいつも無茶振りをしていると思うのですが、彼女は一切の文句を言うことなく仕事をしてくれます。それでいていつも笑顔でいらっしゃいます。今は仕事というよりも飲み仲間といった方がいいのかな、てへっ」

多分、これがすべてを表しているのだろう。私も加賀谷氏の意見には同意する。なぜ氏家さんがこう評価されるようになったのかを考えると、芸人時代の待遇の悪さも一因ではなかろうか。彼女と出会ってから数ヶ月、しきりと言われた一言がある。

「なんで編集業界の人たちってこんなに優しいんですか! 本当にびっくりしました。芸人辞めてよかったです!」

「月給13円?」過酷すぎる売れない芸人の待遇

この時私は編集業界に入って6年目だったが、これは意外な発言だった。というのも、編集者の中には朝の4時だろうが平気で電話をしてきて原稿修正指示を出す人間もいたし、思いつきで何ヶ所も取材させ、「やっぱページがなくなった」などと言うこともザラだった。それでいて「掲載できなくなりました」と謝罪するのはライター任せだったりもする。ギャラを一切支払わず、「あれ、経理が怠慢していますね」なんていけしゃーしゃーと嘘をつくバカもいた。

私としては「優しい業界」だとは特に思っていなかったものの、氏家さんの芸人時代の話を聞くと頷ける。要するに売れない芸人への待遇が悪すぎるのだ。

ホリプロは給料制のイメージがあるが、それはあくまでもある程度売れている人の話だ。売上がまるでない無名の若手にも固定給を払うようなことはない。氏家さんの場合、最高に稼いだ月でも10万円ほどで、大抵は数万円だったという。もっともヒドかった時は13円だった。このビミョー過ぎる「13円」という金額だが、当時芸能人がこぞって参入していた「着ボイス」のダウンロードから得られる印税だという。しかも、自らが100円払ってダウンロードした印税である。

今でこそほとんど遅刻をしない氏家さんだが、芸人時代、一発やらかしたことがある。飛行機で地方に行くロケだったのだが、目が覚めたらロケ開始の時刻。慌てて現場に電話をしたら「おめぇ何やってるんだ。もうこねぇでいい!」とディレクターから激怒されたがとりあえず急いで飛行機に乗り、大幅に遅刻をして現場に到着。4時間ほど遅刻をした形となったが、なんと氏家さんと相方の出番はまだまだ先だったのである。ならばそんなに早く集合する必要はないものの、「下っ端は最初から現場にいろ」といった妙な掟のようなものがあり、早く行かなくてはいけないのだ。それでいてこの仕事のギャラは5000円程だ。

芸能界は一発当てれば大儲けできるだけに、芸人はこうした状況を甘んじて受ける傾向がある。だが、27歳になり、「私はこのままでいいのだろうか……」と考えた結果、芸人を辞める決断を故郷・館山のあぜ道でしたのである。ならば次は何をするか――。

元々文章を書くのが好きだった氏家さんは、ライターになることを決意する。ライターになるにはどうするかを考えた時、「一番好きな雑誌の編集部に押しかけ電話をする」という手段を考える。それが本稿冒頭で書いたテレビブロス・木下への電話だったのだ。恐らく氏家さんは将来的にはエッセイストやコラムニストとしての仕事もしたいと考えていたのだろう。その第一歩としてのライターは悪くはない。こうして始まったライターの仕事だが、私は初月に7~8万円ほどを支払ったと思う。これだけで彼女は大喜び。

「本当にライターっていい仕事ですね!」と感想を持つに至ったのだ。その後も私は彼女に月額8万円の別の仕事を出すなどし、彼女も別の編集者との付き合いも生まれ生活は随分と楽になったことだろう。かくして彼女は仕事に感謝し、自分にギャラをキチンとくれる編集業界に感謝したのである。そしていつしか『週刊SPA!』の「副業特集」で「実際にその副業を体験する」という体当たり取材もするようになる。彼女はお見合いパーティーの司会のバイトを開始し、毎週末は司会をやりまくってはカネを稼いでいた。1回1万5000円ほどもらい、さらにはその体験記まで書き原稿料をもらった。「すごく楽しいですよ!」と言っていた。

ならば芸人時代、彼女は何をしてカネを稼いでいたのか。芸能活動で得られるギャラは本当に少額のため、彼女はバイトをしていた。ある時はトンカツ屋で給仕のバイトをしていたのだが、マネージャーが突然そのことを知り激怒した。

「お前、何トンカツ屋でバイトしてるんだよ、オラッ! おめぇみたいに売れてねぇヤツは、色々変な経験して、少しでも面白くならなくちゃいけねぇんだ! トンカツ屋で働いていても普通の体験しかできねぇだろ! おめぇはストリップ劇場で働け!」

マネージャーなりの危機感とほんの少しの愛情が感じられる指摘だが、さすがに「ストリップ劇場で働け」は度を越えているだろう。踊り子になるのか、或いは裏方スタッフになるのかは分からないのだが、こんな扱いを受けていたのだ。だからこその「編集業界はいい人」発言に繋がるのである。

大失敗の反省を生かして信頼関係を構築

ライターとしての仕事を始めた氏家さんだったが、問題はあった。素直なところ、言われたことをやれる点はいいのだが、いかんせん知識がなさ過ぎるのである。モノを書く人間であれば、最低限の社会常識や経済用語などは知っておく必要はあるのだが、まったく知らなかった。「GDP」も知らないし「容疑者」と「被告」の違いも分からなかった。「政令指定都市」が一体なんなのかも分かっていなかった。あまりにも無知だったため、「とりあえず新聞を読んでくれないかな」とお願いをした。

「何を取ればいいでしょうか?」

「う~ん、思想はある?」

「特に何もありませんが」

「だったら、東京新聞取って。他の新聞は140円とかするけど、東京新聞は100円だからさ」

「はい!」

こうして氏家さんは以後東京新聞を鞄に入れ、移動中は常に新聞を読むようになり、ある程度の常識は手に入れるようになった。少しずつ常識も手に入れた彼女だったが、出会って半年ほど経った2008年4月、私にとってのライター業の師匠ともいえる松浦達也さんから連絡があった。

「中川、ちょっとウチの事務所で新しいアシスタントが必要なんだけど、誰かいい人いないかな?」

そこで私は氏家さんを紹介することにした。彼女と2人で松浦さんの事務所にビールを大量に持参して伺い、2人を引き合わせた。松浦さんの事務所のもう一人のスタッフ・島影さんも氏家さんを気にいったようで、「これからよろしくね!」と言い、最高のスタートを切れた。松浦さんにとっては、煩雑な作業をしてくれる人員が一人増え、氏家さんにとっては収入が増え仕事の幅が広がり、私にとっては両者から感謝されるという状況である。しかし、数週間後、松浦さんから電話が来た。

「あのさ……。氏家さんってどう?」

「どうって、どういうことですか?」

「いやさ、あのさぁ……」

「何かやらかしましたか…?」

「う~ん、中川には話しづらいんだけどね、ちょっとひどくてさ……」

私も申し訳なさから何が問題だったのかは忘れてしまったのだが、締め切りをすっ飛ばすとか、取材相手に対して失礼な態度を取ったとかそういったことだろう。横領するとかそういったことではない。これにより、氏家さんは松浦さんから切られた。

翌週、一緒にサイバーエージェントへ打ち合わせに行った帰りの道中、私は彼女と一言も喋らなかった。約20分の道をいつも二人で雑談しながら歩くのが常だったのだが、この日は何も喋らなかった。とにかく私にとって大切な先輩である松浦さんに「秘蔵っ子」を差し出したつもりだったのに、松浦さんの顔に泥を塗る結果となり、はらわたが煮えくり返っていたのだ。

とりあえず事務所に着き、仕事を開始した。ある程度の指示は出したが、2人して数時間無言で仕事を続けた。ある程度仕事終了の目途が立った時、私も激怒してしまった。

「氏家さんさぁ、何やってるんだよ! オレは松浦さんに人を紹介したことないんだよ!彼が相談してきた時に生半可なヤツを紹介したくないからこれまで誰も紹介しなかった。今回は満を持して氏家さんを紹介したのに大失敗しやがって、何をやっとるのだ!」

これには氏家さんも泣き出してしまった。普段は仕事あがりに銭湯へ行き、サウナに入ってから一緒に酒を飲むことが多かったのだが、この日は銭湯にも飲みにも行かなかった。

「は、はい……。ごめんなさい」

こう彼女は言い、謝罪。最後は「来週もよろしくね」と声をかけて見送った。その晩、氏家さんから反省の長文メールが送られてきた。そこに書かれていたことは「私のような者を信頼してくれて、中川さんの大切な松浦さんに送り込んでくださったのに裏切ってしまい申し訳ありません」というもので、これからはこうした不義理をしない、という宣言だった。

人生を「うまくいかせる」ために必要な3つのポイント

そしてあれから9年5ヶ月が経過したが、以後氏家さんに対して怒ったことは一度もない。弊社のY嬢からも直接仕事をお願いすることもあるなど、より一層の関係性を深めている。サイバーエージェントで一緒に仕事をした社員・Tさんからも現在直接仕事を受注するなど、仕事の範囲はより広まっている。Tさんも結婚式には来た。そして、この写真に登場する青い服の女性との出会いもあった。

この女性は女性セブンの名物記者「オバ記者」である。現在60歳。同誌の体当たり系企画はオバ記者が担うことがあり、時事問題を論じるコラムも書いている。5年ほど前、「ライターとしてどんな人生を送ればいいか迷っている」と氏家さんは相談してきた。オバ記者のことを話すと「そういう人生が理想的です」と語った。

オバ記者は当時55歳だったが、その年になってもひっきりなしに仕事がもらえ、恥も外聞もなく変顔を披露したり、AKBの振り付けを誌上で再現したりもする。そこで、一回オバ記者と編集担当・O氏との会食をセッティングしてもらった。するとオバ記者がすっかり氏家さんを気にいってしまい、以後2人は飲み友達になった。そして、オバ記者の下で“コバ記者”(小さい・若いオバ記者、の意味)として「撮り鉄の旅」などの企画に携わるようになるほか、オバ記者が編集者を務める「ウチのバカダンナ」というコーナーのライターになる。

27歳にして芸人としての人生に見切りをつけ、やりたかった「モノカキ」の当事者に突然電話をし、以後その感じの良さと根性で次々と仕事を獲得し、多くの人から好かれてきた氏家さん。恋愛の面においては色々とうまくいかないことばかりだったが、この度結婚するに至った。相手は大手ゼネコン勤務の9歳年下の男性である。

昨年末、2人して私の元を訪れ婚約の報告をしてくれた時、心底嬉しかった。不遇な芸人時代、無茶振りをされる若手ライターとしての活動を経て14年、ようやくここまで到達したのだ。結婚式では彼女の母親から「裕子があなたに会えて本当に良かったです」と言ってもらえた。いえいえお母さん、彼女が頑張ったからですよ、と伝えたが、生まれて初めて結婚式で感慨深い気持ちになった。

最近、「夢追い人」から50万円の借金を依頼された。彼は40歳間近の役者。どうしてもカネが必要だという。しかし断った。夢というものは諦める期日を作らなくてはダメなのだ。その点氏家さんは4年で「自分はお笑いの才能がない」ことを悟った。人生は判断の連続なのだ。2007年7月、彼女は適切な判断をしたといえよう。

そして、それから会う人々から好かれ、10年後の今、結婚の日を迎えた。全面的にホメるような文章になったが、「決断の速さ」「うじうじしない」といった点に「あっぱれ」をいれたいと思う。よっぽどの才能がある人を除き、人生でうまくいくのは「夢を見過ぎない」「人から好かれる」「常識的」の3点である。それが揃っていれば、なんとかなる。