※この記事は2014年04月28日にBLOGOSで公開されたものです

 かつては「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼ばれた残業代をゼロにする考え方が、安倍政権という株価さえ良ければなんでもあり政権の下、また帰ってきた。今度は労使間の合意さえあれば、一般社員でも残業代をゼロにできるというおまけ付きだ。

 脳内お花畑の「産業競争力会議」のメンツは「多くの人が働く時間や場所を選べ、国際的な仕事を時差を気にせず進めたり自宅で仕事がしやすくなったりする」などと意味不明な利点を主張するが、社会保障すら会社勤めをしていないと得られないような経済先進国として恥ずかしい状況である我が国において、「労働者が労働を選べる」などという状況は、ほぼ存在しない。そんな国で残業代ゼロを導入すれば、すぐにでも産業革命時代のヨーロッパに逆戻りすることは目に見えている。

 産業革命とは、ジョン・ケイが「とびひ」を発明したことに始まる、一連の産業構造の大変化のことである。
 様々な発明品の登場によって産業は飛躍的な発展を遂げ、効率化していった。そして工場を抱える街も飛躍的に発展していった。そして、資本家は産業を利用して大きな資本を手にする事になる。そこで利用されたのが、数多くの富を持たない「労働者」であった。
 労働環境は極めて劣悪で、命にかかわる汚染の中で、大人から子供まで毎日のように長時間労働を強いられた。平均寿命は大幅に下がり、栄養も悪かったから平均身長なども軒並み小さくなっていった。これを問題視した人たちが労働時間の規制などをすることによって、ようやくそれらに歯止めがかかることになる。

 そんな時代に逆戻りするのは嫌だから、僕は労働時間の規制を削ることには反対するのだけれど、しかし「残業代ゼロ」に反対している人は、本当に「規制なき長時間労働」に対して反対をしているのだろうか? 僕にはまるで「残業代が出なくなること」に対して、反対しているように思える。
 残業代が割高なのは、企業に対するペナルティである。しかし一方で残業代が出る労働者からすれば、まるでボーナスのように感じられているのではないだろうか。
 残業代が出ることが常態化すれば、当然「残業代を踏まえた水準で生活を営む」ということになってくる。そうした環境に慣れている人からすれば、この問題は「給料が減る問題」としか認識されていないはずだ。
 また、「仕事(賃労働)をしている人間は偉い」「働いても稼げない非正規はクズだ」という声が当然のようにささやかれる日本において、残業ということを、労働者はそれほど嫌がっていないのではないだろうか。それはたとえ残業代が出なくても残業を行う、サービス残業が常態化していることからも伺える。
 内心嫌だと思いつつ、仕方なくサービス残業をしているならまだマシで、もしかしたらサービス残業を通して会社に尽くしている自分自身に誇りを持つような勘違い労働者も多いのかもしれない。

 ならば、残業をなくすためには、残業代ゼロとは言わず、残業をすればするほど会社に残業代というペナルティがあるのと同時に、労働者にもペナルティを負わせる必要があるのではないか。残業によって仕事を専有するのだから、残業時間によって労使に対して「残業税」を課し、それを仕事が無かったり、安い時給で働いている人に分配するなり、年金や国保ではなく、生活保護などの正しい社会保障のために回すといい。
 それにより、正社員に労働時間を守ることを促し、賃労働だけではなく、お金にならない家族サービスや地域の仕事にかかわらせることも可能になるだろう。また、その残業が本当に必要な仕事であれば、その分を企業は新しく人を雇い入れるしかないから、雇用の促進にもなる。労働者自身においても、仕事をしない余暇を勉強などに費やせば、今のような自分の会社のことしか考えない視野狭窄労働者から脱することができるかもしれない。
 意外に悪くない考え方だと思うのだが、どうだろうか?
 どうせ増税するなら、消費税増税のような方向性なき安易な増税よりも、社会をより良くするための増税をして欲しいと、僕は思うのだけれども。
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