【鎌倉殿の13人】全員登場して欲しい!木曽義仲(演: 青木 崇高)と共に活躍した「義仲四天王」を紹介

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でいよいよ平家討伐に立ちあがる木曽義仲(きそ よしなか)。

青木崇高さん演じる義仲は、田舎育ちの武骨者でありながら道義を重んじ、源氏合力の大義を前に私情を捨てる将器で多くの視聴者を魅せました。

そんな義仲の左右には乳兄弟の今井兼平(演:町田悠宇)、そして幼なじみの巴御前(演:秋元才加)が頼もしく控え、これからの活躍に期待が高まります。

だがちょっと待って欲しい。義仲にとって股肱の臣(ここうのしん。手足として最も頼りになる家臣)はこの二人だけではありません。

義仲につき従う四天王。歌川豊宣「俱利伽羅谷大合戦図」

尺の都合で登場できるか(あるいは割愛されるか)分かりませんが、義仲の周囲を固める四天王の存在は、木曽源氏ファンにとって欠くべからざるもの。

今井兼平(いまい かねひら)樋口兼光(ひぐち かねみつ)根井行親(ねのい ゆきちか)楯親忠(たて ちかただ)

※順不同

そこで今回は木曽義仲を補佐した「義仲四天王」の顔ぶれを紹介。大河ドラマの予習になるかも知れません。

今井兼平(いまい かねひら)

徳音寺蔵 今井四郎兼平肖像

通称は四郎。仁平2年(1152年)、中原兼遠(なかはら かねとお)の子で兼光の弟、また巴御前の兄として誕生。母の千鶴御前(せんつるごぜん)は義仲の乳母で、義仲とは乳兄弟になります。

治承4年(1180年)に義仲が挙兵するとこれに従い、横田河原の戦い(養和元・1181年)・般若野の戦い(寿永2・1183年5月)・倶利伽羅峠の戦い(同年5月)・篠原の戦い(同年6月)など歴戦。平家討伐に数々の武功を立てました。

寿永2年(1183年)7月には念願の上洛を果たすも後白河法皇(演:西田敏行)と対立。法住寺合戦(同年11月)では3倍とも言われる大軍を撃破。後白河法皇を幽閉します。

これによって天下の信望を失った義仲らは、鎌倉より派遣された源範頼(演:迫田孝也)・源義経(演:菅田将暉)らによって撃破されてしまいました。

時は寿永3年(1184年)1月20日。最後まで義仲を鼓舞し、その自害まで時間稼ぎに奮闘したものの、あえなく義仲が討ち取られます。

「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」

※『平家物語』より

【意訳】(主君・義仲が討たれた以上)誰をかばって戦うべきか……東国の者どもよ。見るがいい、日本一の勇者が自害の手本を見せてやる!

そう叫んで太刀の先を呑み込み、馬から飛び降りた兼平は、太刀の串刺しとなって絶命。兼平の武勇と忠義は奉公人の手本として末永く伝えられたのでした。

樋口兼光(ひぐち かねみつ)

徳音寺蔵 樋口次郎兼光肖像

通称は次郎。生年不詳、兼平と巴御前の兄に当たります(巴御前を兼光の娘とする説も)。こちらも義仲とは乳兄弟です。

基本的に上洛までは義仲たちと同じ行動ですが、義仲が平家討伐のため京都を離れると後白河法皇を監視するため留守を任されるなど、信頼の篤さと実力がうかがえます。

寿永3年(1184年)1月、義仲に叛旗を翻した叔父の源行家(演:杉本哲太)らを討伐するよう命じられました。

500騎を率いて京都を離れていたところ、義仲の討死を知った兼光は弔い合戦を挑もうとしますが、親類の説得により武装解除の上で降伏します。

1月26日に検非違使へ身柄を引き渡された兼光を助命するよう親類から嘆願があり、義経もそれを朝廷に上奏しましたが、許されず2月2日に斬首されてしまいました。

樋口次郎兼光梟首。澁谷庄司重國奉之。仰郎從平太男。而斬損之間。子息澁谷次郎高重斬之。但去月廿日合戰之時依被疵。爲片手打云々。此兼光者。与武藏國兒玉之輩。爲親昵之間。彼等募勳功之賞。可賜兼光命之旨。申請之處。源九郎主雖被奏聞事由。依罪科不輕。遂以無有免許云々。

※『吾妻鏡』寿永3年(1184年)2月2日条

「死ぬも生きるも武門の習い。今さら命は惜しまぬが、せめて我が首級を主と並べていただきたい」

武士の情けで願いはその聞き届けられ、兼光の首級は義仲・兼平らと再会を果たしたのでした。

根井行親(ねのい ゆきちか)

宇治川で奮戦する行家。歌川芳員「本朝英雄鏡」より

通称は四郎、または大弥太(おおやた。小弥太とも)。父は望月国重(もちづき くにしげ)、同族の海野幸親(うんの ゆきちか)と同一人物と見られることもあるようです。

生年は不詳ながら保元元年(1156年)に起こった保元の乱では頼朝の父・源義朝(よしとも)に従軍。同一人物とされる海野幸親は永治2年(1142年)生まれとのことで、もしそうであれば当時15歳の初陣でしょうか。

義仲の挙兵に従って各地を転戦、上洛後に鎌倉からの討伐軍を宇治川で迎え撃つも敗北。一歩も退くことなく討死しました。

寿永3年(1184年)1月26日、義仲らと共に梟首(きょうしゅ。さらし首)とされます。

楯親忠(たて ちかただ)

宇治川で奮闘する親忠(右)。歌川国芳筆

通称は六郎、根井行親の子として誕生します。生年は不詳ながら、父の生まれた推定年代からまだ年少と見られ、父と生死を共にしたのでしょう。

並みいる義仲陣営の豪傑たちをさしおいて四天王に選ばれたのですから、よほど将来を嘱望されていたものと思われますが、父の名に恥じぬよう最期まで戦い散華したのでした。

翎。今朝。撿非違使等於七條河原。請取伊豫守義仲并忠直。兼平。行親等首。懸獄門前樹。亦囚人兼光同相具之被渡訖。……

※『吾妻鏡』寿永3年(1184年)1月26日条

【意訳】晴れ。今朝、検非違使たちが七条河原で義仲・高梨忠直(たかなし ただなお)・今井兼平・根井行親らの首級を受け取り、獄門にかけ梟首とした。また捕らわれていた樋口兼光の身柄も引き渡された。

この時『吾妻鏡』には親忠の名前がなく、高梨忠直が義仲のすぐ次に挙げられていることから、こっちの方が四天王であった(少なくとも周囲からは重要人物と見なされていた)とする説もあるようです。

まとめ・義仲四天王の活躍に期待!

今井兼平:仁平2年(1152年)生〜寿永3年(1184年)1月20日自害

樋口兼光:生年不詳〜寿永3年(1184年)2月2日斬首

根井行親:生年不詳〜寿永3年(1184年)1月20日?討死

楯親忠:生年不詳〜寿永3年(1184年)1月20日?討死

以上、義仲四天王について簡単なプロフィールなど紹介して来ました。しかし義仲の家臣団は他にもたくさん。例えば喜多川歌麿「木曽冠者源義仲及其一門」には、これだけの武将が描かれています。

喜多川歌麿「木曽冠者源義仲及其一門」

(義仲&四天王は略)
中山権頭兼任(なかやま ごんのかみかねとう。兼平らの父・中原兼遠?)
小室太郎忠兼(こむろ たろうただかね)
餘田次郎(よだ じろう)
小林次郎(こばやし じろう)
手塚太郎光盛(てづか たろうみつもり)
丸子小平太(まりこ こへいた)
千野太郎光弘(ちの たろうみつひろ)
高楯次郎光延(たかだて じろうみつのぶ)
大夫房覚明(たゆうぼう かくみょう)
矢田判官代義兼(やた ほうがんだいよしかね)
宇野弥平四郎行広(うの やへいしろうゆきひろ)
石黒太郎光広(いしぐろ たろうみつひろ)
十郎蔵人行家(演:杉本哲太)
諏訪三郎(すわ さぶろう)
巴御前(演:秋元才加)
山吹(やまぶき。女武者の山吹御前)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にはこの内どれだけ登場・活躍するのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

鈴木彰ら編著『木曾義仲のすべて』新人物往来社、2008年12月関幸彦ら編『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年11月歴史群像編集部 編『決定版 図説 源平合戦人物伝』学研プラス、2011年11月