悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【後編】

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忠勝の死

前編では、庄内藩初代藩主・酒井忠勝と、その弟の忠重が、藩にもたらした災厄について説明しました。酒井家と庄内藩の受難はさらに続きます……。

前編の記事

高力喜兵衛とその一族が酒井家から排除され、その翌年の1647(正保4)年には忠勝が亡くなります。

酒井忠勝(Wikipediaより)

ここで、家督を誰が継ぐかが問題となりました。そこで松平信綱の裁定により、忠勝の息子である忠当に継承されることになりました。

ちなみにですが、松平信綱は「知恵伊豆」と呼ばれ、徳川15代の礎を築いたともされる名政治家です。

その彼は、亡くなった忠勝を評して「忠勝は短慮で、わがままな振る舞い、ことに悪人の長門殿(筆者注:忠重のこと)の意見に何かと従った。あと1年・半年も存命だったら酒井の家は破滅しただろう」と述べています。

ひとことで言えば死んでよかったということでしょう。

さて、順調に進んでいるように思われた忠重のお家乗っ取りですが、忠当が家督を継いだことで計画は失敗しました。

そもそも、彼の陰謀もこの時には明らかになっていたようです。忠重から脅されていた毛利長兵衛が取り調べを受け、その白状書から陰謀の存在がばれていたのです。

2万両でついに絶縁

しかし、それでしおらしくなる忠重ではありませんでした。1652(承応元)年、死んだ忠勝の遺言の配分金に自分の名前が載っていなかったのを不服とし、幕府に提訴したのです。

その内容は、「自分は忠勝の遺言で2万両をもらう約束になっている」というものでした。

もちろん本当かどうかは分かりません。当主の酒井忠当もそんな話は初耳でした。しかし彼は家臣と相談して、あえてこの申し出を受け入れることにしました。

もちろんタダではありません。忠当は、忠重に2万両を渡すかわりに、今後は酒井本家に一切関わらないことを約束させたのです。いわば2万両は手切れ金で、忠重は実質的に追放されたのでした。

これでトラブルメーカーもいなくなり、しっちゃかめっちゃかに引っかき回されていた酒井家は、ようやく平和を取り戻したのでした。

忠重の最期

しかし、酒井忠重という人物はやはりどこか人格的に問題があったのでしょう。その後の1665(寛文5)年には、自分の娘の婚儀を巡って相手と論争して騒ぎを起こし、おそらく日ごろの素行もよくなかったのか、評判が将軍にまで及んだことから改易処分を受けます。

結局、彼は領地を召し上げられ、旗本の身分も失うことになりました。その後は下総国市川村(現在の市川市)に隠棲しましたが、1666(寛文6)年9月、夜盗に襲われて非業の死を遂げています。

この事件の下手人は、庄内藩からの刺客だったのではないかとも言われているようです。ここまでの所業を見れば、そうだとしても不思議はありませんね。

江戸時代は200年以上続いた泰平の世と言われますが、その初期はまだ戦国時代の気風が残っていたためか、「統治」についてはかなり粗雑な面がありました。

例えば江戸時代を代表する暗君親子である松倉重政・勝家の悪政が原因で島原の乱が起きたことは有名ですし、由井正雪の乱も起きています。

酒井重政のような人物の所業がまかり通ったのも、「天下泰平」への過渡期ゆえだったのでしょう。

参考資料

酒井忠重山形新聞やまがたコミュニティ新聞 ONLINE攻城団ブログ