〈吉村萬壱インタビュー〉「人間のこと、ちょっと好きになってきたのかもしれません」〈祝!デビュー20年〉 吉村萬壱『死者にこそふさわしいその場所』刊行記念インタビュー
その大胆な描写と、人間や社会への鋭い批判の眼差しから、現代を代表する「問題作家」の一人とも言われる吉村萬壱さん。そんな吉村さんの最新刊『死者にこそふさわしいその場所』が8月25日に刊行となりました。デビュー20年に際して語る、人間という生き物の魅力とは――。
10年ぶりに読んだヴァレリーに刺激を受けて
――『死者にこそふさわしいその場所』は、ヴァレリーの『テスト氏』からの魅力的エピグラフで始まります。
ヴァレリーを知ったのは10年くらい前、伊藤亜紗さんがきっかけです。伊藤さんがまだ東京大学の学生だった頃に「Review House」という雑誌を作っていたんですね。その第2号に寄せて、アーチストの作品にインスパイアされた小説を書いてくださいという依頼があった。その時に、伊藤さんの専攻を伺ったらヴァレリーだったんです。せっかくなのでと読んでみて、伊藤さんに色々と質問もしてみたけれど、僕の頭ではさっぱりわからなかった。でもそれ以来、ずっとヴァレリーのことは気になっていました。
「文學界」での小説連載中に亜紀書房からリレーエッセイの依頼が来て(書籍『ひび割れた日常』として刊行)、十数年ぶりに伊藤さんと再会しました。そこで、『テスト氏』を改めて読み返してみたんです。すると「エミリー・テスト夫人の手紙」の中に出てくる朽ちた植物園が素晴らしくて、イメージが湧きました。それで、この植物園を小説の中に取り入れることにしたんです。
折口山町は「人間の変なところの具現化」
――物語の舞台の「折口山町」は、ちょっと度を越した祭り狂いたちが住んでいるところです。
僕が住んでいるのは貝塚市で、隣が岸和田市なんです。岸和田は、ご存知のようにだんじり祭りがとにかく盛んなところ。僕は祭りみたいな、人が熱狂するものはあまり好きじゃなくて、むしろちょっと怖い感じがするんですね。でも、そのメンタリティは面白いなと思うんです。折口山の人達が祭り狂いなのは、そういう日本人、もっと言えば人間の変なところを具現化したかったから。折口山の名前も、実は折口信夫からとっています。
「堆肥男」も、この町に祭り要素を織り込んだ原因の一つですね。「堆肥男」は実際に、僕の仕事場の目の前にあったアパートにいたんですよ。もうそのアパートは取り壊されてしまったんですけれど。彼はずっと入り口を開けっぱなしにしながら、スマホでお祭りの映像を見ていたんです。
目的を失っても祭りは続く
祭りって伝統的なものですけれど、みんな、なぜ続けているかはあまりわかっていないと思うんです。元々祭りには、封建制度の中で虐げられていた民衆の不満のはけ口、という面があったじゃないですか。だからと言って、今の岸和田市民がものすごく抑圧されているわけではないと思うんですね。でも彼らは、すごい使命感とエネルギーを持って、死人まで出しながら、現代まで脈々と祭りを受け継いできている。
伝統文化を引き継いでいかないといけないという、大義名分みたいなものが面白いですよね。例えば、だんじり祭りは近年だんだん若い引き手がいなくなって、他の地域からアルバイトを雇っているらしいんですね。そうまでしてとにかく祭りを続けてかないといけない、みたいな姿勢がまた面白い。
「宗教」はなんでも理論化できる
――「熱狂」といえば、本作の「カカリュードの泥溜り」の主人公・兼本歓は「キラスタ教」という宗教の熱心な信者です。
僕ね、宗教が好きなんですよ。宗教って、わりとどんなことでも、その教義の中に理論づけすることができるんですよね。少し関連本を齧れば、あっという間にでっち上げの宗教を組み立てられる。
例えばオウム真理教だって、色々な宗教から要素を借りてきているわけですよね。桐山靖雄の阿含宗からの影響はもちろんですし、麻原彰晃が入った風呂の水を飲む、なんていうのも、ちゃんと別の宗教に由来がある。
僕は前に、「宗教」(『前世は兎』に収録)という、まさにそのものの短編も書いているんです。ある女の人が「ヌッセン」のカタログを書き写すっていう話なんですね。宗教って、これに近い感じだと思うんです。なんでも教義になりうるんですよ。人間の観念のいい加減さってすごい。「キラスタ教」も一見理論的に見えて、実は無茶苦茶な宗教です。
人間がちょっと好きになってきたのかもしれません
――『虚ろまんてぃっく』などの過去作に比べて、今回の作品はより一層ユーモラスで、吉村さんの登場人物への愛が感じられる本になっているように思います。
『虚ろまんてぃっく』では、「宇宙人の目に映るヒトの姿とはどのようなものか?」というのが小説を書く時の視点である、とあとがきに書きました。宇宙人はすごく高い視点から人間を見ているので、感情の機微なんかは度外視しますよね。確かに振り返ってみると、今回の本は、その視点を下げて、人間側に寄せて書いたように思います。
月並みな言い方ですが、歳をとったということなんでしょうか。僕も今年の2月で60歳、還暦になって、作家生活も20年を迎えました。改めて周りを見回してみると、人間の営みって、結構興味深いなって思うようになったんですよ。
以前は、「人間は20世紀の100年間で1億人も同胞を殺すような危険生物だ」って思っていたんです。今もそう思ってはいます。ただ、僕も残りの人生の方が少ないので、「人間に生まれてきてどうやった?」って自問してみるんです。すると、人間として生まれてきてよかった気がするんですよね。人間って本当に訳のわからない、理屈で説明がつかない愚かなことをしている。でもそんな人間が、ちょっと好きになってきたのかもしれません。その感じが、この本に出たのかなって思います。
人間はとにかく「暇」
結局人間って、暇なんですよ。例えば虫なんかは、とにかく忙しいじゃないですか。餌を食べ続けないといけないし、油断すると食われてしまう。だからやることがないときにはじっとして、エネルギーの消費を抑えているんですよね。暇を持て余すということはない。
それに比べると、人間は胃袋が大きいですから、食事をするにしても1日3回、2回ぐらいでも十分なわけです。で、労働して分業とかやっちゃう。するとあとの時間は全部、別のことができる。その最たるものが文化的な営みですよね。Twitterしかり、オリンピックしかり。
小説も、なくてもいいものじゃないですか。今、僕は故あってプルーストを読んでいるんですけれど、『失われた時を求めて』がこの世に存在していなくても、なんてことないんじゃないかなって思いながら読んでます。プルーストがいなくても、誰か代わりの人が出てきたでしょうし。そもそも、きちんと理詰めで考えたら、「絶対に必要な小説」なんて多分ないような気がするんです。でも僕も含めて、小説を書いて、評価したり、一等賞決めたり、売れたり売れなかったり……と、虫から見たら「何やってんの?」みたいなことを営々とやっているわけです。
余力の営みを必死で理論武装する
人間って、どこか本能が壊れていると思うんですよね。今だってパンデミックの最中なのにオリンピックをしたり、死人が出ているのにだんじり祭りを続けたり、大人しくしておけばいいのに不倫して酷い目にあったりする。小人閑居して不善をなす、じゃないけれど、やっぱり「余力」が人間に変なことをさせるんでしょうね。
そしてその振る舞いを、必死で理論武装する。宗教に限らずとも、自らの営みを変な理屈をつけて合理化していく。人間のその労力たるや、すごいものがあると思うんですよ。原発なんか最たる例ですけれど、せんでもええことをして、大惨事になって、火消しをしているマッチポンプアニマルですよね。構造的にも世界の半分が飢えているようなシステムを作り上げておいて、その現状を嘆いて、色々なシステムを作って救おうとして、でもなかなかうまくいかなくて、の繰り返し。
世の中のスピードが緩まない
――その「火消し合戦」についていけなくなってしまったのが、「絶起女と精神病苑エッキス」の主人公・高岡ミユのように思います。
この世の中は、ものすごい速度で動いているでしょう。全体がレベルダウンしたら、落ちこぼれている人達ももっと楽になると思うんです。朝起きられない「絶起女」ミユも、例えば、出勤を1時間遅くしましょうってみんなが言ってくれたら、ついていけたかもしれない。でも、社会のスピードが全然緩まらないから、彼女は振り落とされてしまったんですよ。
このコロナ禍で、日本では緊急事態宣言が発令されて、世界中でロックダウンが起こったとき、僕は「ついにこの時が来た」って思ったんです。世界の営みの全体のレベルが落ちた、これで世の中はもっと楽になるはずやって。でも結果的に、それは一時的なものに過ぎなくて、むしろコロナ前に弱者だった人がやられてしまった。結局、誰もスピードを緩めない、社会を止めないんですよ。緩めないことによる弊害もあるんだけど、それを弱い人たちを切ることによって生き延びた。
もしも寿命が10万年あれば
コロナ禍になってからの最近の動きを見ていると、日本が本当の意味で狂い始めた感じがしますね。それは小説家にとっては非常に面白い現象で、しっかり見ていてやろうと思っています。
例えば、もはや色々な情報が信じられないじゃないですか。国が信頼できないから、民間企業も、ましてや隣のおっさんが言っていることなんて信じれられない。だからと言ってインターネットで検索してみると、調べるほどにわからなくなる底なし沼で。
もしも人間の寿命が10万年くらいあったら、誰も悪いことなんてしないと思うんですよ。もっと慎重になる。でも、人間なんて生きて100年じゃないですか。余命幾ばくもない政治家が、本気で100年、200年後のことを考えて今の自分を犠牲にするわけがないですよね。今の政治家って逃げ切ろうって考えている人ばかりで、国民のことを考えているようには見えないじゃないですか。中には志の高い人もいるとは思いますが。だから国のこともやはり、信じられないですよね。
ただ政治家だけが悪いわけじゃなくて、一般人もいい加減なもんですけどね。まさにこの小説の登場人物たちがそうであるように。
人間にある「崇高なもの」
――吉村さんが、それでも人間の営みに惹かれる理由って何なんでしょうね。
人間って、みんないい加減だけど、やっぱりどこかに崇高なものを持っている気がするんですよ。例えばそれは、死ぬ瞬間に現れると思うんです。
死ぬって言うのは、しがみついているもの、即ち煩悩から手を放すっていうこと。だから、死はある種の解放であると思っていて。我々は色々と愚かなことをしますけれど、結局は土に還って、初めて自由になる。
そうでないとあまりに救われないでしょう。もし死後に本当に地獄みたいなところがあって、延々と業火に焼かれるんだったらすごく辛いけれど、そうじゃないんじゃないかな。死んだら他の生物の肥やしになるっていうのはいいですよね。でもそう思うと、本当、人間って、何のために生まれてくるんでしょうね。
よしむら・まんいち
1961年、愛媛県松山市生まれ、大阪で育つ。2001年「クチュクチュバーン」で第92回文學界新人賞を受賞しデビュー。03年「ハリガネムシ」で第129回芥川賞、16年『臣女(おみおんな)』で第22回島清恋愛文学賞を受賞。