チェッカーズ人気の火付け役・売野雅勇が振り返る「5回ダメ出し」「フミヤとの思い出」
「実は、チェッカーズは(デビュー約4か月前の)1983年5月ごろ、『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』と、最初のシングル3枚分(全6曲)をまとめてレコーディングしていたんだ」(売野雅勇・以下同)
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このうちの2作目シングル『涙のリクエスト』や、5作目シングルの『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』など、チェッカーズの初期の大ヒット曲を手がけた作詞家・売野雅勇はこう話す。売野はチェッカーズに、シングル表題の10曲を含む30曲以上もの楽曲を提供している。
『涙のリクエスト』が勝負の1曲だった
チェッカーズは福岡県久留米市で結成された男性7人組のバンドで、'81年にヤマハの音楽コンテストで入賞し、'83年の3月に上京。その直後から、ヤマハのディレクターに頼まれて歌や演奏を教えていたのが、彼らのプロデューサーでもあった作曲家の芹澤廣明だ。そして、いざ曲を作ろうという段階で作詞を依頼されたのが、前年に芹澤とのコンビで中森明菜の『少女A』をヒットさせた売野だった。
なお、デビュー曲となった前述の『ギザギザハートの子守唄』(作詞:康珍化、作曲:芹澤廣明)は、「ゆるやかなテンポで始まるよりも、もっと強烈な個性のある曲でデビューさせたい」と考えた芹澤が、以前に真田広之用に書いてボツになっていた曲を持ってきたのだという。売野によると、
「ホントは、俺もその曲に新たに詞を書いてみたのだけれど、康さんが書いた歌い出しの《ちっちゃなころから悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ》のインパクトには敵わなくて結局、採用されなかったね(苦笑)。B面の『恋のレッツダンス』は、もともとはメンバーの武内享くんが書いていて、アマチュア時代から人気だった曲。だから、原型の初々しい気持ちを生かすかたちで書いた気がする。完成度はなかったけど、変える必要もないくらいのキュートな歌詞だったね」
とのこと。ちなみに、この『ギザギザハートの子守唄』は、'83年9月に発売されるもオリコンTOP100にはなかなか入らず、チェッカーズ自身も焦りを感じていたようだ。その様子は、メンバーである高杢禎彦の著書『チェッカーズ』(新潮社)および売野雅勇の著書『砂の果実』(朝日新聞出版)にもつづられている。
筆者も発売当時、ブレイク前の新人が中心となった音楽番組『アイドルパンチ』(テレビ朝日系)に彼らが毎週のように出演していたのを何度か観たが、エンディング間際に1コーラスだけ歌うといった、雑な扱われ方をされていたのが記憶に残っている。
ところが、続く2作目の『涙のリクエスト』('84年1月発売)は、まだブレイク前にもかかわらず、シングルジャケットが6ページのミニ・ピンナップ仕様で、トップアイドル並みの扱いになっている。つまり、レコード会社としては、ここで勝負に出ることを決めていたのだろう。
「もともと『涙のリクエスト』の前評判はとてもよかったんだよ。ただ、バース(曲本編に入る前の序章部分)から始まるし、デビュー曲にするにはちょっとインパクトに欠けるってことで、セカンド・シングルになったんだよね(笑)。
この『涙のリクエスト』は、彼らに初めて詞先(曲ができる前に作詞をすること)で書いた2作のうちのひとつなんだ。そのとき一緒に『テレヴィジョン・ベイビー』ってタイトルの歌詞も作った。順番からいくとこっちが先に書けたし、自分としては本命だと思っていたよ。なぜかって言うと、歌詞についての最初の打ち合わせでヤマハのプロデューサーから、“《未来のオールディーズ》ってコンセプトで、サウンドは(そのころはやっていた)ロンドンのニューウェイヴ」と言われていたんだ。
でもね、彼らのデモテープを聴くと、基本的にドゥー・ワップ・グループ('50年半ばにアメリカで隆盛した合唱スタイルの一種)だったからさ、本当にニューウェイヴでいいのかなあという疑問もあって、念のために”押さえ”のつもりで、ラッツ&スター(旧名:シャネルズ)にも通じるような純粋なオールディーズの基本イディオムを使って書いたんだよ。2作を提出したんだけど、芹澤さんが『涙のリクエスト』を気に入ってくれて、そっちだけに曲をつけたんだね」
芹澤の大英断は見事に当たり、発売4週目には初のオリコンTOP20入りを果たし、音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の注目作を紹介するコーナー“スポットライト”に登場。その2週後には、オリコン、『ザ・ベストテン』ともにTOP10入り。さらに、3週後には『ザ・ベストテン』で1位に上りつめ、7週連続の1位となった。オリコンでは、初登場作品に阻まれ最高2位どまりとなったが、6週連続でTOP3入りを維持。累計約67万枚を売り上げ、年間第4位となる大ヒットを記録した。
“2曲目×売野=成功”の神話が誕生
そして、3作目のシングル『哀しくてジェラシー』が発売されるや否や急上昇。それとともに、徐々にチャートを上げていた『ギザギザハートの子守唄』もTOP10入りし、当時としては非常に珍しい“3曲同時にTOP10入り”を、レコード売り上げ、『ザ・ベストテン』ともに達成する。その後の快進撃は、多くの人が知るところだろう。
「だからね、『少女A』も『涙のリクエスト』もセカンド・シングルだから、当時“2曲目を売野雅勇に書かせたら売れる”っていうのがヒットの法則みたいに言われて、ちょうどよかったよ。結果オーライってやつだね(笑)」
ここから、’86年に発売の『Song for U.S.A.』 まで大半のシングルを売野が手がけているが、同年までに出た4枚のオリジナルアルバムでも、収録曲の約半数は売野が作詞している。
売野はその1stアルバム『絶対チェッカーズ!!』についても、興味深い2つのエピソードを語ってくれた。ひとつは、鶴久政治がリードボーカルをつとめた楽曲『HE ME TWO(禁じられた二人)』について。男性カップルの恋愛をテーマにした曲だが、当時としてはかなり異色の内容だった。
「以前から、自分が好きになる作家や芸術家にゲイが多くて、逆に“なんで俺だけそうじゃないんだろう”って不思議に思うくらいだった。それだけ自分にとっては身近な存在だったから、このテーマの曲を書いたんだ」
この少し前、郷ひろみに書いた『2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-』でも《抱きしめて男を女をハーフを》というフレーズがあり、その根底に深い人類愛を感じさせる。
そして、もうひとつは、続くシングル『星屑のステージ』にまつわる話。これは、もともとアルバム用の1曲だったという。
「『星屑のステージ』は、ちあきなおみの『喝采』をヒントに作ってほしいと言われてね。俺は、アイドルには私小説的な歌詞を書くから、作品と彼らの軌跡が互いに接近してくるのだけれど、この詞を書くときには主人公たちと、彼らのライブハウスに来ていた女の子との架空のストーリーが浮かびあがってきたんだ。ヒントとすべきが『喝采』だから、その女の子はもうこの世にいない、という設定にして」
(※『喝采』の歌詞は、“大切な人との死別”が大きなテーマとなっている)
そのドラマティックな設定と、悲しい歌詞でも前向きな気持ちにさせる藤井フミヤの歌声、メンバーのコーラスや演奏の力強さも相まって、初のバラード・シングルながら『ザ・ベストテン』では7週連続の1位となった。
生みの苦しみの先につかんだ栄光
そうして迎えた5作目のシングルが『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』だが、当時ノリに乗っていたと思いきや、超難産の1作だったという。
「『ジュリア〜』は5回書き直したけど、それは未だに更新されない自己最高記録だね(笑)。最後のかたちが100点だとしたら、最初に出した原稿は、後から振り返ると50点くらいだったかな。芹澤さんに何度もダメ出しされて。彼はもともと歌手だから、自分が歌って気持ちいいか、カタルシスがあるかどうかが大事で、心に突き刺さらないとOKが出ないんだ。普通、そこまで何度もNGだと他の作詞家に変えちゃうんだろうけど、俺が最初に書いた
《キャンドル・ライトが ガラスのピアスに反射(はじ)けて滲む》
という出だしのフレーズのグルーヴ感が、誰にも敵わないくらい圧倒的だったんだよ。全体をこのノリに合わせればイイ歌になる、って確信してくれていたみたい」
5回も書き直したかいあって、どのパートも印象的なフレーズに仕上がった『ジュリアに傷心』は、オリコン調べではチェッカーズの中で唯一70万枚を超えるセールスとなり、'85年度のオリコン年間ランキングでも1位に。また、'00年代に始まった音楽配信でも10万以上のダウンロードを記録しており、まさに“記録にも記憶にも残るヒット曲”となったと言えるだろう。その後も売野は『あの娘とスキャンダル』や『俺たちのロカビリー・ナイト』『OH!POPSTAR』と、彼らのリアルなイメージを投影した歌詞を手がけ、順調にヒットを飛ばしていった。
ここでも、印象深いエピソードをひとつ。
「そういえば、9枚目のシングル『神様ヘルプ!』(作詞:康珍化)のときに、俺もその同じメロディで詞を書いていたんだ。でも最終的に康さんの『神様ヘルプ!』をシングルにするからって、ボツにされたんだよね。その歌詞には自信があったからね、ちょっと残念というか、“え!?”って感じだよね。しかし、そういうのはよくあることだから、決してメゲたりはしないんだよ。もちろん、俺の作品のほうが絶対いい、なんてことも言わないさ。それが作詞家ってもんだよ。
ボツのことなんてすっかり忘れたころ、真夜中だったけど、自宅近くのコンビニに入ったとき、聞き覚えのある歌詞が流れてきて、“俺の詞に似てるな”、“こうやってフレーズを並べれば、売野雅勇風にできるんだ”と妙に感心していたんだ」
2コーラス目が流れてくると、フミヤの歌声だとわかり、「これは俺が書いた『ひとりじゃいられない』という歌だ!」とやっと気づいた。同時に、ずいぶん前に芹澤から「ボツにしたけれど、お蔵入りにするにはもったいないので、別のメロディーをつけてシングルのB面に入れましたから悪しからず」と言われていたのを思い出したという。(詳しい記述は、前述した売野の著書『砂の果実』にもあり)
ちなみに、この『ひとりじゃいられない』の歌詞には、人を思いやる真っすぐな気持ちが込められており、フミヤの温かい歌声ともリンクして、女の子が胸キュンしそうなミディアム・バラードに仕上がっている。それはまるで、メンバーからファンに宛てた1通のラブレターのようだ。
筆者が担当するランキング番組『渋谷のザ・ベストテン』(渋谷のラジオ)でも、チェッカーズ限定のランキング投票を実施したところ(全2060票)、ファンリクエスト部門では8位と、シングルB面曲としては異例の人気に。実際のA面だった『神様ヘルプ!』を大きく上回っている。
フミヤに言われた忘れられない言葉とは
その後、シングルでは11作目の『Song for U.S.A.』('86年6月発売)を最後に、売野×芹澤コンビでのチェッカーズへの楽曲提供は終了。12作目の『NANA』からチェッカーズはセルフ・プロデュース期に突入し、'92年に解散した。しばらくしてフミヤがソロで活動し始めたものの、彼はチェッカーズ時代のセルフカバーを歌う際、弟の藤井尚之が作曲したものをメインとしており、芹澤廣明の作品は“ひとりじゃ歌えない”と事実上、封印してきた。
しかし、コロナ禍を憂いたフミヤは「人々に元気を届けられるなら」と芹澤氏に相談し、'21年の特別番組『激レア! 藤井フミヤ ギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)にて約29年ぶりに芹澤作品を披露し、その後のツアーでもセットリストに組み込んでいる。このことを、売野はどう思っているのだろうか。
「最近、フミヤくんがまた当時の歌を歌ってくれるようになって、本当にうれしい。最高だよ! 歌にとっても、封印されてしまうのは、かわいそうだからね。俺の中でチェッカーズの1番ソングはやっぱり、ひときわ苦労した『ジュリアに傷心』だろうね。12インチ・シングルだった『ブルー・パシフィック』も好きだし、シングル以外なら、アカペラの『ムーンライト・レヴュー50s』かな。それと『ローリング・ダイヤモンド』の、ちょっと不良っぽい歌詞も気に入っているよ。
チェッカーズの魅力はズバリ、“キュートな不良性”。不良なんだけど汚れたイメージがなくて、オシャレなんだよね。フミヤくんは洋服が大好きみたいで、“最初の河口湖のレコーディング合宿のとき、売野さんは真っ白なスーツで来ましたよね”って言い張るんだよ。そんなはずはないんだけど、会うたびに言われた。それに、“いつも、どんな服を着ているの”って、ブランドのこともよく知っていて尋ねられたね。当時、俺は古いベンツに乗っていたんだけれど、チェッカーズの初コンサートで所沢まで乗っていくつもりが、途中でバッテリーが上がっちゃって、行けなくなって悔しかったことまで思い出しちゃったよ(笑)」
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
うりの・まさお ◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。'90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。