鈴木忠典さんの腕や足には銃弾の傷跡が残っている

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 終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第10回)

【写真】出撃前の鈴木さん、海軍志願兵募集のポスター

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 奥羽山脈のふもと。秋田県横手市で鈴木忠典さん(84)は両親ときょうだい4人の6人で暮らしていた。小学校高学年のころから同級生のあこがれは軍人だった。

 学徒出陣が始まった1943(昭和18)年、14歳のとき学校に志願兵募集の通知が来た。同級生40人中5人が志願し、鈴木さんだけが合格。両親の目を盗んで判子を押し、志願書を出してしまった。

「戦争の本当の怖さなんて知らなかった。戦車を何台やっつけたという武勇伝に興奮しては、兵隊ごっこに明け暮れていましたから」

 横須賀海軍水雷学校で精鋭をより抜いた特別訓練科へ。訓練は厳しく、たとえ乗り切っても「連帯責任」でしこたまブン殴られた。毎夜、消灯ラッパが鳴るのを待って宿舎のハンモックで泣いた。

 約半年の訓練で戦地行きが決まった。年末に3日間の休暇を与えられ、仲間のほとんどは実家に帰っていった。

「ところが大雪で、実家の秋田に帰るには鈍行列車で片道19時間かかる。どう計算しても半日もいられないし、万が一、戻るのが遅れたら処罰をくらうので諦めたんです。戦死を覚悟していたので最後にお母さんの手を握りたかった。やむなく上野駅の奥羽本線15番ホームで線路に敬礼しました。“お母さん、さようなら”って」

撃たれた仲間がのたうちまわる

 翌44(昭和19)年1月、長崎・佐世保から魚雷艇でソロモン諸島に向かった。7、8人乗りの小型船で敵艦1000メートル以内に近づいて魚雷2本を発射する。撃ちこんだら素早く引き返さなければならない。発見されると容赦ない砲撃を浴びせられた。

 撃たれた仲間が、

「水をくれ」

「早く殺してくれ」

 とのたうちまわる。

 任務遂行中でもあり、どうすることもできなかった。

「私は魚雷発射手でした。発射レバーを握り、合図を待ちます。顔のすぐ横を敵の砲弾がヒャーン、ヒャーンとうなりをあげていきました。海軍では命令がない限り、仲間が倒れても持ち場を離れてはいけない。交戦が終わってから撃たれた仲間のところに行くと、すでに息絶えていました。ウソでもいいから“いま行くぞ!”と言ってあげればよかった」

 戦況は悪くなるばかりだった。味方の輸送船が沈められて魚雷が届かなくなり、潜水艦での輸送任務に切り替わった。

 硫黄島の守備隊のことは今でも忘れられない。

「島に米軍が上陸する前のことです。夜間に海上で武器・弾薬や食料を守備隊に渡すんですが、受け取りにくる若い兵士はみな血色が悪く、明らかに何も食べていないんです。見かねた上官が“おまえら帰ったら食べられないだろうからここで食べていけ”とうながしても、“持って帰ります”と口をつけようとしない。ぜんぶ大事そうに箱に詰め、パンひとつ口にしませんでした」

 硫黄島は玉砕し、戦争は終わった。

立ち向かわなくていい

 戦地から帰還した鈴木さんは、両親と向き合って「私が弱かったから戦争に負けてしまいました」と頭を下げた。

「いいんだ、いいんだ」

 と父親は答えた。

 母親は、お風呂をわかすと、

「背中を流してあげる」

 と入ってきた。急に背中に爪を立ててしがみつき、ワーッと泣きじゃくったという。

 終戦後ずっと、戦争の話はしたくなかった。しかし、70代半ばのころ、平和祈念展示資料館(東京)から戦友会に『語り部』の依頼が来て引き受けることを決めた。戦地で命を落とした彼らのことを伝えたかった。

「諸外国に反感を買うようなことはよくよく慎むべきです。戦争というのは殺しですから。私は語り部活動で子どもたちに必ず言います。“もし戦争になったら逃げなさい。立ち向かわなくていい”って」

※2013年取材(初出:週刊女性2013年8月20・27日合併号)

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する