19年間の専業主婦をへて離婚。50代から始めた一人暮らし「今が一番幸せ」
夫との関係に行きづまっても、子ども二人を連れて離婚となると、踏み切れない人は多いでしょう。それでも、定職も頼れる実家もない状態で離婚をして、その後の人生、幸せを手にした人もいます。44歳で子連れ離婚をした、酒井マサコさん(59歳・正社員営業職)です。離婚から子離れ、そして現在の一人暮らしに至るまでのお話をうかがいました。
現在一人暮らしの酒井さん。一人時間をとても楽しんでいる様子です。「結婚時代は自分のためには一切お金を使っていませんでしたが、今は時間もお金もすべて自分のために使える。大好きなお酒も飲み始めました」(酒井さん)
「二人の子どもと家を出て、アパートに引っ越してきた時は、晴れ晴れした思いでした。専業主婦にどっぷり浸かっていた私でも独り立ちできたことが嬉しくて。あの日が私の“独立記念日”です」(酒井さん・以下同)
穏やかな笑顔で語る酒井さん。離婚後は一心不乱に生活費を稼ぎながらも、専業主婦時代には得られなかった充実感があったといいます。ゼロからの再スタートで、どう生活を立て直していったのか、お話を伺いました。
酒井さんは、大卒後に地方銀行に勤め、25歳で見合い結婚。19年間の専業主婦を経て、当時高校生と中学生だった長男、長女を連れて家を出ました。夫の精神疾患や給与使い込みが主な原因で、44歳で離婚が成立。二人分の養育費は9万円で決まり、支払いが止まったら元夫の給与差し押さえができるように公正証書を作成しました。
とはいえ、当時、長男は私立高校で剣道部に所属。長女は中学校に通う思春期真っ盛りの年代で、お金もかかります。主婦時代から続けていた添削業の在宅ワークは、1本900円の仕事を3時間かけて仕上げていたため正味「時給300円」だったそう。離婚後には、在宅ワークの収入をコツコツ貯めた300万円の資金があったとはいえ、月収は在宅ワークの仕事、養育費、児童扶養手当などの諸手当と合算しても10万円台。これではアパートの家賃15万円を払えるかどうかで、二人分の学費はおろか、生活費を払うことすらできません。そこで、就職活動をスタート。
「幸い派遣の仕事で採用されたので、添削の仕事をやめようとしたら、なんと発注先である社員教育の会社が私を正社員に雇ってくれたんです。子どもたちは『お母さんは世間知らずだから使い物にならないと思うよ』と心配していましたが、最後には『まあ、なんとかなるんじゃないの?』と背中を押してくれました」
写真はイメージです
主婦時代、割に合わなくても時間をかけて丁寧に添削の仕事を仕上げていたことが、思わぬ幸運をもたらしてくれたのでしょう。
正社員として就職しても安心しないのが酒井さんです。「厳しい会社だから、使い物にならないとクビになる」と考え、子どもたちが寝ている早朝に家を出て、ぞうきん持参で始業2時間前に出勤。「19年間主婦をやっていたから、掃除くらいはできるだろう」と、オフィスの掃除を始めたのです。この朝の2時間が、今につながったと振り返ります。
「当時、私より早く出勤していた70代の先輩社員がいました。私は先輩の『一番乗り』を妨げまいと、二番目に出勤。掃除をしながら、先輩から、設立当時の話やお客様のことなど様々なことを学びました。加えてメールや手紙の整理をしたり電話を受けたりしていると、右も左も分からない新人でも、だんだんと取引先の名前を覚えるようになるんです」
その先輩も数年後には他界し、後を継ぐ形で営業職がスタート。ここでも、早朝出勤が思わぬ実りをもたらしたそうです。
「最初は新規営業で、名簿を見て電話をかけるだけ。でも、7時台に出勤すると、FAXの折り返し電話をしたら取引先の社長さんが出られて、お互いに名前を覚えて雑談も生まれてくる。営業は社長と話をして決める仕事。とくに企業によっては朝7時台に電話しないとつながらないところもあるので、朝に話ができることでお客さんとの縁がどんどんできていったんです」
“朝活”により営業出張も増え、仕事は好調。さらに、文学部出身で文章も書けた酒井さんは、勤務先が主催する文章のセミナー講師や社内新聞の編集なども任せてもらえるようになり、今では講師や営業の仕事で全国を飛び回ることも多いそう。
「最初のお給料は、アパートの家賃15万円を払える程度。児童扶養手当などの諸手当や養育費を合わせて、食べさせるのがやっとでした。それから15年間仕事を続けた今、給料は手取り24万円にアップ。なんとかがんばっていれば道は開けるんだ、と思いましたね」
今でも初心を忘れず始発出勤を続け、会社の掃除をしてから業務を始めるという酒井さん。「トイレ掃除をしていると、不思議と会社に愛着もわく」といいます。
「時々すごくつらいこともありますが、翌日早朝に出勤してトイレを磨いていると、『まあいいか』という気分になるんです。今では、皆さんが私にゴミの捨て方を聞いてくるようになりました(笑)」
写真はイメージです
たくましく変化していったのは酒井さんだけではありません。二人の子もそれぞれ、自分の力で道を切り開いていったのです。
離婚当時、長男は高校生、長女は中学生。3人で家を出た日、3LDKの旧マンションから持ってきた荷物が小さなアパートに入りきれず、長男は引っ越し業者に「坊や、あのお母さんじゃ大変だから、あんたこれからがんばるんだよ」と言われたそう。
「その言葉通り、親は世間知らずの“ダメ母”で、お小遣いもロクにあげられなかったから、自分がしっかりするしかなかったのでしょう。息子は私立校の剣道部に所属していたんですが、他の学生が使い古した竹刀を継ぎ合わせて使ったりして、離婚後は一本も竹刀を買わずに乗りきりました。
じつは彼は、中学時代に、肩から下の筋肉が少なくなる筋ジストロフィーの診断を受けていました。そこで離婚後まもなく、障害年金を受給するために障碍者申請をしてもいいかと相談すると、『俺を売る気か!』と、手が上がらないのに私に殴りかかってきたんです。障碍者としてではなく、自分の力で道を切り開きたかったんですね。彼はその意志を貫き、部活で使う道具だけでなく、大学の学費から就職まで、ほとんど親の力も借りなかった。大学は奨学金制度を使い、就職も障碍者枠を使わず自力で金融機関に内定をもらいました。今では格安スマホの料金も自分で値下げ交渉するほど“締まり屋”に成長しています」
長男が就職して家を出てからは、酒井さんは住まいを縮小し、ラーメン屋の2階に転居。当時高校生だった長女はその住居を恥ずかしがっていましたが、長男と同様、自分で道を切り開いていきました。高校時代から飲食店でバイトをし、「接客業で就職する」と、バイトを続けながらホテルスクールに通いました。その後、大手外資系ホテルに就職して、独立。
「娘は独立して家を出ていく日に出会った引っ越し業者と電撃結婚しましたが、出産を経て、2年もしないうちに離婚。私が19年間も結婚生活を我慢して、離婚した直後に明るくなった姿を見てきたので、決断が早かったんです(笑)。今はシングルマザーとして奮闘しているようですが、ここでべったりと手助けをしたら彼女は自立しません。私は少し離れた場所で一人暮らしを謳歌しながら、見守ることにしました」
酒井さんの現在の住まい。都内で借りているワンルームの賃貸マンションです
娘が独立してから現在までの5年間、酒井さんは3度の引っ越しをし、そのたびに荷物を減らし、どう暮らしたいかを考えてきました。そして今が、その完成形。
1日の流れは、夜9時に寝て1時に起床。ラジオ深夜便を聞いて夜明け前から川沿いの道を2時間ほど散歩して、日の出を見るのが日課となっています。
「かつて娘がホテルのバー勤務だったので、帰宅に合わせて起きていたらそれが習慣になったんです。まだ薄暗い時間に、月あかりに照らされた部屋でFMラジオを聴いていると、『あー、幸せだな』と思うんです。
「今の一番の楽しみは、息子と娘が遊びに来て晩酌をすること。わいわい話した後、雑魚寝をするんです。狭い部屋ですが、ベッド下が収納ケースになっていて、子どもたちの寝袋もここに(笑)」
夫との関係に行きづまっていた30代は心も体も絶不調でしたが、家を出て自立してからは心も体も元気になって、自分らしさを取り戻せました。30代に比べると、今の方が体重は10kgも減ったし、体も柔らかくなって体調もすこぶるいいんですよ。ストレスがないからでしょうね」
親から勧められるままに就職、結婚して、結婚後は夫に従いお金も自由に使えなかったという酒井さん。今では住まいから時間とお金の使い方まですべて自分で決められ、自分のためだけに使える。独立した日から15年経った今が、一番幸せなのだといいます。
●教えてくれた人
59歳、正社員。44歳で離婚し、現在社会人として活躍する二人の子を女手一つで育てあげた。離婚時に就職した社員教育の会社では、営業をしながら文章セミナーの講師なども兼務し、全国を出張で飛び回っている。
現在一人暮らしの酒井さん。一人時間をとても楽しんでいる様子です。「結婚時代は自分のためには一切お金を使っていませんでしたが、今は時間もお金もすべて自分のために使える。大好きなお酒も飲み始めました」(酒井さん)
専業主婦からの就職、子どもの自立、そして一人暮らしに至るまで
「二人の子どもと家を出て、アパートに引っ越してきた時は、晴れ晴れした思いでした。専業主婦にどっぷり浸かっていた私でも独り立ちできたことが嬉しくて。あの日が私の“独立記念日”です」(酒井さん・以下同)
穏やかな笑顔で語る酒井さん。離婚後は一心不乱に生活費を稼ぎながらも、専業主婦時代には得られなかった充実感があったといいます。ゼロからの再スタートで、どう生活を立て直していったのか、お話を伺いました。
●離婚当時の勤労収入は「時給300円」の在宅ワークのみ
酒井さんは、大卒後に地方銀行に勤め、25歳で見合い結婚。19年間の専業主婦を経て、当時高校生と中学生だった長男、長女を連れて家を出ました。夫の精神疾患や給与使い込みが主な原因で、44歳で離婚が成立。二人分の養育費は9万円で決まり、支払いが止まったら元夫の給与差し押さえができるように公正証書を作成しました。
とはいえ、当時、長男は私立高校で剣道部に所属。長女は中学校に通う思春期真っ盛りの年代で、お金もかかります。主婦時代から続けていた添削業の在宅ワークは、1本900円の仕事を3時間かけて仕上げていたため正味「時給300円」だったそう。離婚後には、在宅ワークの収入をコツコツ貯めた300万円の資金があったとはいえ、月収は在宅ワークの仕事、養育費、児童扶養手当などの諸手当と合算しても10万円台。これではアパートの家賃15万円を払えるかどうかで、二人分の学費はおろか、生活費を払うことすらできません。そこで、就職活動をスタート。
「幸い派遣の仕事で採用されたので、添削の仕事をやめようとしたら、なんと発注先である社員教育の会社が私を正社員に雇ってくれたんです。子どもたちは『お母さんは世間知らずだから使い物にならないと思うよ』と心配していましたが、最後には『まあ、なんとかなるんじゃないの?』と背中を押してくれました」
●ぞうきん持参で早朝出勤し、営業職に
写真はイメージです
主婦時代、割に合わなくても時間をかけて丁寧に添削の仕事を仕上げていたことが、思わぬ幸運をもたらしてくれたのでしょう。
正社員として就職しても安心しないのが酒井さんです。「厳しい会社だから、使い物にならないとクビになる」と考え、子どもたちが寝ている早朝に家を出て、ぞうきん持参で始業2時間前に出勤。「19年間主婦をやっていたから、掃除くらいはできるだろう」と、オフィスの掃除を始めたのです。この朝の2時間が、今につながったと振り返ります。
「当時、私より早く出勤していた70代の先輩社員がいました。私は先輩の『一番乗り』を妨げまいと、二番目に出勤。掃除をしながら、先輩から、設立当時の話やお客様のことなど様々なことを学びました。加えてメールや手紙の整理をしたり電話を受けたりしていると、右も左も分からない新人でも、だんだんと取引先の名前を覚えるようになるんです」
その先輩も数年後には他界し、後を継ぐ形で営業職がスタート。ここでも、早朝出勤が思わぬ実りをもたらしたそうです。
「最初は新規営業で、名簿を見て電話をかけるだけ。でも、7時台に出勤すると、FAXの折り返し電話をしたら取引先の社長さんが出られて、お互いに名前を覚えて雑談も生まれてくる。営業は社長と話をして決める仕事。とくに企業によっては朝7時台に電話しないとつながらないところもあるので、朝に話ができることでお客さんとの縁がどんどんできていったんです」
“朝活”により営業出張も増え、仕事は好調。さらに、文学部出身で文章も書けた酒井さんは、勤務先が主催する文章のセミナー講師や社内新聞の編集なども任せてもらえるようになり、今では講師や営業の仕事で全国を飛び回ることも多いそう。
「最初のお給料は、アパートの家賃15万円を払える程度。児童扶養手当などの諸手当や養育費を合わせて、食べさせるのがやっとでした。それから15年間仕事を続けた今、給料は手取り24万円にアップ。なんとかがんばっていれば道は開けるんだ、と思いましたね」
今でも初心を忘れず始発出勤を続け、会社の掃除をしてから業務を始めるという酒井さん。「トイレ掃除をしていると、不思議と会社に愛着もわく」といいます。
「時々すごくつらいこともありますが、翌日早朝に出勤してトイレを磨いていると、『まあいいか』という気分になるんです。今では、皆さんが私にゴミの捨て方を聞いてくるようになりました(笑)」
●思春期真っ盛りの二人の子も、やがて自立
写真はイメージです
たくましく変化していったのは酒井さんだけではありません。二人の子もそれぞれ、自分の力で道を切り開いていったのです。
離婚当時、長男は高校生、長女は中学生。3人で家を出た日、3LDKの旧マンションから持ってきた荷物が小さなアパートに入りきれず、長男は引っ越し業者に「坊や、あのお母さんじゃ大変だから、あんたこれからがんばるんだよ」と言われたそう。
「その言葉通り、親は世間知らずの“ダメ母”で、お小遣いもロクにあげられなかったから、自分がしっかりするしかなかったのでしょう。息子は私立校の剣道部に所属していたんですが、他の学生が使い古した竹刀を継ぎ合わせて使ったりして、離婚後は一本も竹刀を買わずに乗りきりました。
じつは彼は、中学時代に、肩から下の筋肉が少なくなる筋ジストロフィーの診断を受けていました。そこで離婚後まもなく、障害年金を受給するために障碍者申請をしてもいいかと相談すると、『俺を売る気か!』と、手が上がらないのに私に殴りかかってきたんです。障碍者としてではなく、自分の力で道を切り開きたかったんですね。彼はその意志を貫き、部活で使う道具だけでなく、大学の学費から就職まで、ほとんど親の力も借りなかった。大学は奨学金制度を使い、就職も障碍者枠を使わず自力で金融機関に内定をもらいました。今では格安スマホの料金も自分で値下げ交渉するほど“締まり屋”に成長しています」
長男が就職して家を出てからは、酒井さんは住まいを縮小し、ラーメン屋の2階に転居。当時高校生だった長女はその住居を恥ずかしがっていましたが、長男と同様、自分で道を切り開いていきました。高校時代から飲食店でバイトをし、「接客業で就職する」と、バイトを続けながらホテルスクールに通いました。その後、大手外資系ホテルに就職して、独立。
「娘は独立して家を出ていく日に出会った引っ越し業者と電撃結婚しましたが、出産を経て、2年もしないうちに離婚。私が19年間も結婚生活を我慢して、離婚した直後に明るくなった姿を見てきたので、決断が早かったんです(笑)。今はシングルマザーとして奮闘しているようですが、ここでべったりと手助けをしたら彼女は自立しません。私は少し離れた場所で一人暮らしを謳歌しながら、見守ることにしました」
●50代で初の一人暮らし
酒井さんの現在の住まい。都内で借りているワンルームの賃貸マンションです
娘が独立してから現在までの5年間、酒井さんは3度の引っ越しをし、そのたびに荷物を減らし、どう暮らしたいかを考えてきました。そして今が、その完成形。
1日の流れは、夜9時に寝て1時に起床。ラジオ深夜便を聞いて夜明け前から川沿いの道を2時間ほど散歩して、日の出を見るのが日課となっています。
「かつて娘がホテルのバー勤務だったので、帰宅に合わせて起きていたらそれが習慣になったんです。まだ薄暗い時間に、月あかりに照らされた部屋でFMラジオを聴いていると、『あー、幸せだな』と思うんです。
「今の一番の楽しみは、息子と娘が遊びに来て晩酌をすること。わいわい話した後、雑魚寝をするんです。狭い部屋ですが、ベッド下が収納ケースになっていて、子どもたちの寝袋もここに(笑)」
夫との関係に行きづまっていた30代は心も体も絶不調でしたが、家を出て自立してからは心も体も元気になって、自分らしさを取り戻せました。30代に比べると、今の方が体重は10kgも減ったし、体も柔らかくなって体調もすこぶるいいんですよ。ストレスがないからでしょうね」
親から勧められるままに就職、結婚して、結婚後は夫に従いお金も自由に使えなかったという酒井さん。今では住まいから時間とお金の使い方まですべて自分で決められ、自分のためだけに使える。独立した日から15年経った今が、一番幸せなのだといいます。
●教えてくれた人
【酒井マサコさん】
59歳、正社員。44歳で離婚し、現在社会人として活躍する二人の子を女手一つで育てあげた。離婚時に就職した社員教育の会社では、営業をしながら文章セミナーの講師なども兼務し、全国を出張で飛び回っている。