娘よりも母親(私)がいいの?平城天皇を惑わせ謀叛を共謀した平安時代の悪女・藤原薬子

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美しい女性を見ると、ドキドキワクワクしてしまうのが男性の本能(であると共に、それを制御するのが理性)というものですが、それが行きすぎて天下の御政道を誤り、ひいては国を滅ぼしてしまった事例は、古今東西枚挙に暇がありません。

今回はそんな一人、畏れ多くも平城天皇(へいぜいてんのう。第51代)を惑わして国家を危うからしめた平安時代の悪女・藤原薬子(ふじわらの くすこ)のエピソードを紹介したいと思います。

娘の夫と不倫関係に

藤原薬子は生年不詳、藤原種継(たねつぐ)の娘として誕生。兄に藤原仲成(なかなり)がおり、やがて藤原縄主(ただぬし)と結婚して三男二女を授かります。

やがて長女が成長すると、桓武天皇の皇太子である安殿親王(あてしんのう。後の平城天皇)から結婚の申し入れがありました。

安殿親王には以前、藤原帯子(たらしこ。藤原百川の娘)という伴侶がいたのですが、延暦13年(794年)に若くして病没。それ以来独身だったのです。

安殿親王に輿入れした長女(イメージ)

娘が皇太子妃(未来の皇后)となることを喜んだ縄主は吉日を選んで輿入れさせますが、まだ幼く、世慣れぬ姫が心細かろうと母親の薬子も同行させます。

すると安殿親王は、何の間違いか姫よりもその母・薬子に惹かれてしまい、姫をそっちのけで不倫関係を持ってしまったのでした。何だか、エロ漫画でありそうな展開ですね。

当時、安殿親王は30歳前の壮年期。おままごとのような幼い姫君よりも、女盛り?な薬子の方に惹かれてしまうのも解らないでもありませんが、それでも不倫はダメ、ゼッタイ。

噂は間もなく市井に広がり、程なく「親王殿下は妃殿下とその御母堂を閨にはべらせ、毎晩三つ巴の痴戯にふけっておられる」などと尾ひれがついてしまいます。

妻の不貞に恥じ入った縄主は自ら謹慎してしまい、桓武天皇は当然ながら大激怒。ただちに薬子を追放し、春宮大夫(皇太子殿下のお目付け役)に縄主を任命し、二度と「悪い虫」が寄りつかないようにしました。

「バカモノ!何をしておるか!」桓武天皇のお怒りも当然(イメージ)

やれやれ、これで一件落着……となればよかったのですが、そもそも娘のパートナーに手を出すような(逆かも知れませんが、少なくとも言い寄られて拒まなかった)薬子ですから、このまま終わる筈がなかったのです。

邪魔者を排除し、権力を思いのままに

さて、安殿親王のことを思っていたのかいなかったのか、悶々と暮らしていた薬子に転機が訪れたのは延暦25年(806年)。

桓武天皇が崩御され、皇太子であった安殿親王(以下、平城天皇)が皇位を継承されると、薬子は内裏へ呼び戻されます。

「あぁ、一日として貴女を思わぬ日はなかった……」

「えぇ、わたくしもにございます……」

感動?の再会を果たして二人は、もう長女なんてそっちのけ(余計なことを話されないよう、恐らく飼い殺しor粛清されたのでしょう)、邪魔な夫・縄主は栄転という名目で大宰帥(だざいのそち)として九州へ追いやってしまいました。

「さぁ、これで我らの恋路を邪魔する者はおらぬ!」

妹のお陰で大出世を果たした藤原仲成(イメージ)

最初は理想的な政治を志していた平城天皇でしたが、政治の実権は薬子の兄・藤原仲成が握るようになり、兄妹二人で政治を私物化。

多くの人々から怨みを買ったでしょうが、何しろ天皇陛下が自分の言いなりなので、まさに怖いものなしです。

しかし、平城天皇は元から身体が弱かったため、健康上の理由から大同4年(809年)に皇位を皇太弟の神野親王(かみのしんのう。以下、嵯峨天皇)に譲られて太上天皇(上皇)となり、隠居のため平安京を去って平城京へ移住します。

このまま安らかな余生を送りたかったところですが、今までさんざん天皇陛下の権威を嵩(かさ)に威張り散らしてきた薬子と仲成は、気が気ではありません。

「上皇陛下には権威があっても権力に欠ける。このままでは、我らを怨む連中から復讐されかねない……」

そこで二人は、平城上皇をそそのかして遷都の詔勅(天皇陛下の命令)を発せしめるのでした。世に言う「薬子の変」の始まりです。

準備に1年、3日で鎮圧

「平安京を廃し、平城京に都を戻す!(要約)」

平城上皇の発せられた詔勅に、嵯峨天皇ら平安京のメンバーは驚きます。

「バカな!父帝(桓武天皇)が『平安京から都を移すな』と遺言されたのをお忘れか!」

そもそも、現職の天皇陛下を差しおいて遷都のように重大な詔勅を発するなど、同じ皇族と言えども謀叛とほとんど変わりありません。

「畏れながら、上皇陛下はあの女狐にたぶらかされておいでですな……」

今すぐにも止めさせたいところでしたが、平城京には勢力を蓄えた仲成の軍勢が控えており、真正面から力押しすれば、こちらも被害は甚大でしょう。

「そこで、ここはとりあえず詔勅に従ったフリをして布石を打ち、機を見て一気に鎮圧するのがよろしいでしょう」

という訳で、嵯峨天皇は平城京の造営使(都市整備の担当官)として坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)らを派遣。その一方で、平城京からは仲成を招待してねんごろにもてなします。

武人として名を馳せた坂上田村麻呂。彼を味方に引き入れれば心強い。菊池容斎『前賢故実』

(フフフ、我らに恐れをなしておるな……)

妹・薬子が上皇陛下の寵愛を受けている限り、平安京の連中も我らには手を出せまい……古来「憎まれっ子世に憚る」とはよく言ったもので、仲成の得意顔が目に浮かぶようです。

かくして平安京の嵯峨天皇、平城京の平城上皇という二重権力が睨み合い、もしかしたら平城上皇の復帰もあるのか、どちらに従ったものか人々は混乱しながら、明けて大同5年(810年)9月10日。

「上皇陛下を惑わす奸臣どもを誅(ちゅう。処罰)する!」

丸1年をかけて周到に準備していた嵯峨天皇は、手始めとして平安京に滞在していた仲成を捕らえ、薬子の罪を糾弾し、その官位を剥奪する詔勅を発しました。

「……平安京の連中め、ついに正体を現したか!者ども、かかれ!」

兄の逮捕を知った薬子は平城上皇と共に挙兵したものの、忠実な部下だと思っていた坂上田村麻呂らが一斉に寝返り、たちまち孤立無援となってしまいます。

「……最早これまで。朕は出家して弟に詫び、そなたの助命嘆願をいたそう」

平城上皇はただちに出家・剃髪して平安京へと出頭。それを見送ったのか否か、薬子は9月12日に服毒自殺。仲成も処刑されて「薬子の変」はあっけなく終焉を迎えたのでした。

エピローグ

薬子の変に連座して息子たちもそれぞれ処罰を受けましたが、後に復帰。そもそも大宰府に遠ざけられていた夫の縄主は無罪とされます。

また、出家した平城上皇もその地位を保たれ、嵯峨天皇の朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう。目上の皇族に対する拝礼)を受けていることから、あくまで薬子と仲成にたぶらかされただけの被害者として赦されたようです。

時に、誰が呼んだか日本三大悪女というものがあるそうで、時代順に北条政子(ほうじょう まさこ。鎌倉時代)・日野富子(ひの とみこ。室町時代)・淀君(よどぎみ。戦国時代)と言うそうですが、彼女たちよりも薬子の方がよほど悪質だったのではないでしょうか。

あるいは天下を狙った分だけ「スケールが大きかった」と言えるかも知れない(イメージ)

※豊臣家を滅ぼした淀君はともかく、鎌倉幕府の危難を救った北条政子のどこが悪女で、日野富子も悪評こそあれ言い分はあります。

為政者が私情に走り、色恋に迷えば国を誤る……今回紹介した「薬子の変」は、日本史上に大きな教訓を残してくれたようです。

※参考文献:
円地文子 監修『人物日本の女性史5 政権を動かした女たち』集英社、1977年7月
高橋崇『人物叢書 坂上田村麻呂 新装版』吉川弘文館、1986年7月