美術界が揺れる「アーツ前橋」作品紛失問題、前橋市と前館長が激しい対立
群馬県前橋市の美術館「アーツ前橋」で、作家の遺族らから預かった作品6点が紛失した。それだけでも大事件だが、その責任をめぐって、前橋市と当時の館長が激しく対立。美術界を揺さぶる前代未聞の騒動に発展している。
前橋市は、事件の原因や対応を調査する委員会を設置して、ことし3月に報告書をまとめた。その中で、大きな問題点の一つとされたのが、遺族に対する報告の遅れだ。
2020年1月に紛失が確認されたにもかかわらず、遺族への報告はその6カ月後だった。報告書では、当時館長だった住友文彦氏や学芸員が、遺族に事実を伝えることを避けようとしていたことなどが原因として指摘されている。一方、住友氏は「隠ぺいはなかった」と反論し、両者の主張は平行線をたどっている。
この問題をめぐっては、美術評論家連盟が一時、前橋市の報告書の中立性に懸念を表明した。しかし、その後、情報公開請求によって入手した資料などをもとに再び検討、5月31日には「調査報告書の内容がおおむね妥当」だったとして撤回と謝罪をおこない、住友氏の言動を「美術館員及び評論家としての職業倫理に悖(もと)るもの」と厳しく批判している。
作品の紛失発覚から、事件が公表されるまでの間、アーツ前橋で何が起きていたのだろうか。情報公開請求によって明らかとなった資料から、よみとく。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
●作品を閉校した中学校舎のパソコン教室に
まず、前橋市の報告書をもとに、これまでの経緯を説明する。
2018年12月、アーツ前橋の学芸員が作家の遺族らから52作品を預かり、閉校した中学校舎のパソコン室に搬入した。2019年3月、学芸員が借りた作品の確認作業をおこない、状態の良い37作品をアーツ前橋に移動させた。このときはまだ、作品は紛失していなかったという。
2019年12月、中学校舎にある学校備品が処分されることとなり、当時の副館長と学芸員らが床にテープを貼り、借りた作品との境界を明確にした。その後、教育委員会が学校備品を処分した。
ところが、2020年1月6日に学芸員らがアーツ前橋に移動させる作品を確認したところ、3作品が見当たらないことがわかった。学芸員が住友氏に報告したのは1月27日だった。2月に入り、新たに3作品が確認できず、合計6作品の紛失が判明した。
なお、のちの資料で明らかとなるが、当時のパソコン室は使用可能な学校備品も置かれており、前橋市の学校教員らが使用していた。鍵は教育委員会が管理していたものの、貸出簿はなく、監視カメラもなかったことから、出入りしていた関係者を特定できないという。
●情報公開請求で明らかになった700ページ超の資料
報告書が問題視したことの一つが、遺族への報告が遅れた経緯だ。遺族へ紛失が知らされたのは、発覚から半年も経ってからだった。
報告書によると、住友氏と学芸員が、「作品リストを更新して、紛失した作品は最初から借用していなかったと遺族に伝える」「2022年に作家の企画展を提案し、その終了後に紛失の事実を伝えるか判断する」などと提案したとされている。
これに対し、住友氏は報告書が公表されると同時に反論。「(当時)作品を預かる際に作成したリストが正確ではなかった可能性があった」「(企画展の提案も)最初の把握が間違っていたらという想定をしていた」と会見で訴え、隠ぺい工作などはおこなっていなかったとして、前橋市側の見解とは真っ向から対立している。
また、「もし教育委員会や行政職員を擁護するために館⻑と学芸員の対応を問題視する、 このような報告書が作成されたのであれば、そのために不利益を被ることをめぐって裁判 等で訴えるつもりです」と法的措置も示唆した。
前橋市が公表した報告書は、表紙も含めて10ページと決して多くはない。一体、どのような調査や資料をもとに報告書がまとめられたのか。
弁護士ドットコムニュースでは、この問題に関心を持ち、前橋市に対して情報公開請求をおこなったアーティストでコンビニ経営の吉田和貴さんから関連資料の提供を受けた。吉田さんが入手した資料は、合計71点・700ページを超えている。
この資料には、内部の生々しい会話やメールの記録も含まれており、紛失発覚から関係者の動向が浮かび上がる。抜粋して紹介する。
●「遺族に伝えれば、作品寄贈が撤回になる」
まず、作品がなくなっていることに気づいた現場の動きが伝わる資料がある。紛失が確認された直後、2020年2月時点の学芸員と当時の副館長(前橋市職員)との会話記録だ。
それによると、学芸員は「この件は会議に出さない方が良い。最小限の人だけが知っているのがベスト」「遺族との関係を考えた時、この事実はひとまず公表しないでおいた方が良いと思っている」などと発言していた。
これに対して、当時の副館長は「隠すことは得策ではない。隠すことはアーツ全体の損失にもなる」「事故の管理はあまり一人で背負わないこと。みんなで考えること」などと懸念を示していた。
同年同月、学芸員が経緯をまとめた文書でも、遺族への対応として「本年度の美術品収蔵委員会で、作品の寄贈が決定したばかりであるため、現時点で遺族に状況を共有することで、寄贈の話も振り戻ってしまう可能性が高い」「現在は調査中という形で、保留にしておくのが良いのではないか」と記している。
この後、2020年3月から4月にかけ、前橋市の担当職員らの人事異動があり、新年度の新体制になってから本格的な対応が協議されるようになる。
●住友氏が関係者会議を欠席した「理由」
しかし、前橋市側と住友氏・学芸員側の考えは当初から隔たりがあった。
経緯をまとめた資料によると、2020年4月6日、紛失問題が副市長に報告され、前橋市側では事故報告を前提に速やかに事実確認をおこなうことを確認している。
4月14日、担当課長と住友氏が面談し、前橋市側は「事実を遺族に伝え、公表すべき」と主張した。これに対し、「館長の意見は『公にするとアーツの今までの取り組みが無になるとともに、今後の事業にも大きく影響する。学芸員も職を失うことになり、自分も辞める。』というもの」と記録されている。
その翌日、前橋市は新旧年度の担当課長や元副館長らが「関係者会議」を開いた。会議録によると、住友氏にも再三、出席を求めたが、「解決方法について館長案と前橋市側の案が違うこと、およびこの会議に行政管理課(編集部注:組織管理や情報公開を担当する課)が入ることに納得がいかないという理由で、欠席となった」という。
なお、この会議では住友氏からの手紙も代読された。手紙では、前橋市側の対応について、「行政が組織としての解決を図ろうとするという手続きに入れば市長判断という結果になり、(中略)良い判断だと考えていません」として、「今回は作品価値に比して公開することで失うものが多すぎると判断しています」「それは当館の6年間の活動をすべて失い、おそらく回復するのに10年かかり、専門職員としてキャリアが長い者がいなくなる可能性が高い」と断じている。
また、学芸員の専門性も説明し、「価値が変わり、多様なものを相手にするため、清濁併せ呑む判断をするために長い時間をかけて相手との信頼を作る仕事です。それを手続きとしての正しさを優先されることで否定されるのであれば、専門的な判断への不当な介入と見なさざるを得ません」と行政側を批判している。
●平行線をたどる前橋市と住友氏
この会議の翌日、山本龍市長に第一報が入り、速やかな調査が指示された。その後、作品を搬入した運送業者や、不要な学校備品を処分した担当職員、管理していた学芸員らにヒアリングが重ねられた。
2020年5月12日、担当課長や副館長がオンライン会議で、住友氏に遺族に紛失を伝える意向がないことを確認。翌日、担当課長が紛失問題について報告書を作成し、遺族への「速やかな報告の後、遺失届の提出、公表を含めて検討する」と記載された。この報告書に住友氏は押印していない。
報告を受けた市長は同年5月19日、住友氏に対して遺族に事実を報告するよう指示を出した。これについては、2021年3月、住友氏は会見で「私や学芸員の専門職の立場から遺族への説明をおこなうべきという主張を行政管理職が認めないので、その点を市長に了解を取ったというのが正確な内容」と指摘している。
一方で、副館長が同年6月におこなったヒアリングで、学芸員が「館長(住友氏)からリスト更新で進めるよう指示を受けた」と答えている(リストの更新とは、報告書の記載によると「紛失した6作品を除いた作品リストに更新して遺族らに渡し、紛失した作品は初めからなかったと伝える」という案)。副館長は「懲戒処分になる可能性が高い」としてリストの更新はしないよう指示した。
同年6月、担当部長、担当課長、副館長らが住友氏にヒアリングをおこなった。この会話記録でも、「市長からの指示通り、遺族に作品紛失の事実を伝えるように」という前橋市側と、「一切市長はそんなことは言ってない」という住友氏の主張は、すれ違っていることが浮かび上がる。
また、この時点で前橋市側は情報公開請求によって、紛失問題が明らかになる可能性も考慮し、問題を早期に公表をしようとしていたことがうかがえる。
住友氏へのヒアリング後、数日間にわたり市長からの指示やそれに対する住友氏への返事のメールがやりとりした記録も残っているが、内容は黒塗りで公開されていない。
●「なぜ6カ月も隠ぺい」遺族の憤り
2020年7月に入り、前橋市側に焦りがみえるようになる。
7月7日、担当課長から住友氏へ、経過確認がされた。まだ遺族へ報告がおこなわれていないことを確認した担当課長が「時間を要するならば遺族への謝罪および公表は事務職員で進める」とメールをしたが、住友氏は「私たちの努力に対する信頼を全て無にするような判断としか思えない」と返答している。
そして7月13日、初めて学芸員から遺族に紛失報告の電話がされた。さらに7月20日、住友氏と学芸員が別の遺族に紛失を報告した。
遺族との面談記録や意見交換の記録も残されている。それらの資料によると、紛失の事実よりも、「なぜ6カ月もの間、紛失が遺族へ伝えられず隠ぺいされたのか、いまだ明確に納得いく回答がない」など、アーツ前橋の対応に対する憤りや不信感が伝わる。
前橋市では、9月に前橋警察署に相談。「紛失判明から警察相談まで時間が経ちすぎている」「直後に警察に相談してもらわなければ確認できなくなる」「外部から侵入された事実がなく、犯人特定につながる証拠が見出せない」といった理由から、「盗難届」扱いは難しいとの話があった。
2020年11月には上毛新聞から取材があり、紛失問題が明るみになった。その後は、報道されている通り、前橋市は2021年3月に報告書をまとめ、住友氏は館長を退任した。
前橋市では2021年5月、専門家らで構成する「アーツ前橋あり方検討委員会」を設置、課題や今度の運営について議論が始まった。
●「美術の社会的な信頼を失墜させる」
美術評論家連盟の常任委員会のメンバーである、美術評論家の土屋誠一さんは、情報公開請求によって入手された資料について「住友氏と学芸員側が、遺族に対して紛失事実の隠ぺいを画策しようとしたことが読み取れます」と指摘する。
「極めて問題だと思うのが、前橋市側は作品を紛失したことを作家のご遺族に伝えたほうがいいと言っているにもかかわらず、美術の専門家に任せてほしいというふうに発言している記録が多数ありました。
本来、専門家だったら、作品を大切に扱わなければならず、その作品を愛している作家のご遺族に対して、誠実な対応をするのが当然のことです。住友氏の言動は、専門性の濫用にあたると思います。美術の領域に対する社会的な信頼を失墜させることにつながりかねません」
美術評論家連盟では、この問題に引き続き注視するとともに、「前館長(住友氏)、及び、作品紛失隠蔽との関連が疑われる担当学芸員の言動については、今後も情報収集に努めつつ慎重に議論を重ね、必要に応じて本連盟の見解を示すことも検討しています」としている。
一方、住友氏は弁護士ドットコムニュースの取材に対し、6月中旬をめどに、前橋市に対しあらためて見解を発表することを明らかにした。