意外と呑気な後方部隊?「関ヶ原合戦図屛風」のいちばん左上にポツンとあるのは誰の陣?
天下分け目の関ヶ原(せきがはら。現:岐阜県不破郡関ヶ原町)……と言えば、歴史ファンなら誰もが知っているであろう関ヶ原の合戦(慶長5・1600年9月15日)。
その激闘を描いた関ヶ原合戦図屏風を見たことがある方も多いと思いますが、あれもじっくり観察すると、細かなところまで描き込まれていて実に興味深いものです。
さて、こちらの屏風を見ていると、ふと疑問に感じました。
屏風の一番左上、山の向こう側にポツンと陣が張ってあり、黒地に石餅(こくもち)紋の旗がひるがえる近くに「山中臺」と書いてありますが、これは武将の名前でしょうか。
「関ヶ原合戦図屏風」より。決戦の舞台から遠く後方の「山中 臺」とは?
位置的には石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍なのでしょうが、山中という苗字の武将はいたのでしょうか。そもそも、決戦の舞台から遠く離れたこんなところで、いったい何をしているのでしょうか。
意外と呑気な後方部隊
……結論から先に言いますと、この山中臺とは武将の人名ではなく「やまなかだい(臺は台の旧字)」という地名で、西軍の武将・大谷吉継(おおたに よしつぐ)が前日まで陣を張っていた跡地なのだそうです。
そう言われてみれば、右下に陣を進めている大谷義隆(大谷吉継)も黒地に石餅紋の旗指物を使っていますね。
「関ヶ原合戦図屏風」より。大谷義隆(吉継)の陣
屏風の書き方が「山中_臺」とスペースが開いていたので、てっきり人名かと思ったのですが、他の人名は別にスペースを開けてもいないので、ここに書き入れる時にたまたまそうなっただけなのでしょう。
ともあれここは既にもぬけの殻なのか、あるいは退路を確保するべく最低限の兵を置いていたのか……もし後者であれば、遠く決戦の様子を眺めながら
「前線の様子はどうかな……あ、こりゃダメだな」
「前評判だと勝てそうだったから大谷方にもぐり込んだけど、見込み違いだったか」
「あの旗は小早川(こばやかわ。秀秋)か?ウチともみ合っているってことは、ヤツら裏切りやがったんだな」
「せめてウチの大将だけでも助かって欲しいけど、あの性格だから、石田殿に義理を立てて討死するんだろうな」
盲目ながら輿に乗って采配を振るい、最期まで善戦した大谷義隆(吉継)。「関ヶ原合戦図屏風」より
「しょうがねぇ、敵がこっちまで攻めて来る前に、疾々(とっと)とずらかろうぜ!」
なんて言っていたのかも知れませんね。
いざ合戦と言っても、そこに参加する全員が全員必死で戦っていたとは限らず、後方部隊には意外と呑気な連中もいたりいなかったりするものです。
終わりに
他にも関ヶ原合戦図屏風をじっくり観察すると色々興味が惹かれるもので、パッと気づいた面白いものをいくつか挙げてみます。
※文末の()は屏風の位置。6つ折りになっている屏風を右から数えています。
「関ヶ原合戦図屏風」より、松林の火柱?
……他にもたくさん細かな描写がなされており、戦う武将たちの仕草や表情も実に躍動感にあふれていて、実に興味深いものです。
「関ヶ原合戦図屏風」より、落馬した本多忠勝。井伊家の活躍を描きたかった作者の都合上、事実に反して引き立て役にされた可能性も。
もちろん、写真や動画ではないので事実ありのままではないのですが、それでも作者の意図や関係者の認識など、当時の人々が合戦をどのようにとらえ、後世に伝えようとしたのか思いを馳せるには、絶好のキッカケとなります。
「これが関ヶ原合戦図屛風です」と言われると、大抵は「ふーん、そういうものなんだ」とスルーしてしまいがちですが、色々発見があるものですから、お時間の許す限りじっくりと観察してみると楽しいですよ。
※参考:
郄橋修 監修『図説・戦国合戦図屏風』学習研究社、2002年9月関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料)- 彦根城博物館