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ある日突然、犯罪者の汚名を着せられ、長期間にわたって自由を奪われる――。「国家による最大の人権侵害」の一つとも言われる冤罪。その過酷さは想像を絶し、人々は被害者への同情を惜しまない。

しかし、どんな冤罪事件も、世論はむしろ「敵」というところからスタートする。「逮捕=犯人」と見なされ、起訴されれば99.9%有罪になってしまうからだ。

鹿児島県大崎町で1979年に男性の変死体が見つかった大崎事件もそうだった。殺人の罪などで10年間服役した原口アヤ子さん(93)は、無実を訴える署名活動中、「警察が間違うわけがない」とツバを吐きかけられたことがあるという。

それが今や、多数の新聞・テレビが再審を開くべきだと、裁判所や検察を批判する論陣を張っている。もともと直接証拠が乏しい事件だったことなどに加え、見つかった男性に事故死の可能性も出てきているのだ。

こうした変化の裏には、弁護団事務局長を務める鴨志田祐美弁護士の存在がある。公務員試験の予備校講師などをへて、2002年に40歳で司法試験に合格。修習生時代から大崎事件の再審請求にかかわってきた。

このほど出版した『大崎事件と私〜アヤ子と祐美の40年』で、これまでの活動を振り返っている。(編集部・園田昌也)

●裁判所に「重大事件」だと思わせないと

鴨志田弁護士らに大きな影響を与えた一言がある。今をさかのぼること15年ほど前、大崎事件の第一次再審請求のときだ。

「最高裁の調査官との面談中、『重大事件ならともかく』って軽くあしらわれたんです。高裁では取り消されたけれど、地裁では再審開始決定が出ているのにですよ。

あれが本当に強烈で。裁判所に『重大事件』だと思わせないと再審で勝てない。世の中の人がこの事件を知ってないとダメなんだと悟ったんです」

一度でも再審開始決定が出ているのであれば、法曹関係者やメディア関係者にとっては「重大事件」のようにも思えるが、必ずしもそうではなかったのだという。

「大崎って、鹿児島県の中でも端っこ。鹿児島のメディアは熱くても、中央メディアでは知名度が低かった。首都圏の弁護士でさえ、『山手線の大崎ですか?』と真顔で聞いてくるぐらいでした」

●地道な記者会見「よき伝え手を育てる」

2010年から始まった第二次再審請求では、地裁段階から裁判所が「塩対応」という苦戦を強いられた。そこで鴨志田弁護士は一計を案じる。

当時はちょうど、1997年に起きた東電女子社員殺人事件で再審無罪が出たばかり。この事件では、裁判所が証拠開示に積極的で、最終的に捜査機関が有罪の立証に不利になる証拠を隠していたことが明らかになった。

裁判所のやる気次第で、証拠開示をされたり、されなかったり――。そうした制度の欠陥を「再審格差」という言葉で問題提起し、メディアの注目を集めるようになった。

再審無罪が確定すれば、メディアはこぞって乗っかってくるものの、結果が出る前に取り上げるのはリスクが高いから及び腰になる。まずは話を聞いてもらい、関心を持ってもらう必要があった。

「私たち弁護士は発信していかなきゃいけない。『よき伝え手』を育てるというのも、仕事の一つなのではないかと思っています。だから、地道に記者会見などを開いてきました」

原口さんが高齢であることも影響し、メディアでの扱いは徐々に変化。特に地元鹿児島での報道は分厚く、鴨志田弁護士が街中を歩ていると、市民から「頑張って」と声をかけられることもあるという。

今回の出版について、「話をもらったのは、第三次再審請求の高裁で勝った直後。最高裁でも勝って、アヤ子さんの闘い振り返る企画になるはずだったんです」という。

しかし、最高裁が破棄自判し、棄却決定を出したことを受け、むしろこの現状を広く一般に知ってもらう必要があると思いを強くした。最高裁の態度はもちろん、検察が不服申し立てできる仕組みにも問題があると指摘する。

●個性派弁護団をまとめる「猛獣使い」

もちろん、メディア対応だけではなく、裁判所にも原口さんの無実を論証してきた。しかし、再審開始のハードルは高い。現状を打破するためには、「新しい血」が必要だ。

そこで弁護団長の森雅美弁護士を軸に、若手を呼び込むいっぽう、元裁判官の木谷明弁護士、再審無罪になった足利事件の佐藤博史弁護士、GPS捜査違憲判決の亀石倫子弁護士といった著名弁護士も巻き込んでいった。

「再審事件って長いんですよ。大崎は第一次再審請求のときから25年以上やっている。

ずっと同じ人が最前線を走り続けられるかというと、なかなか難しい。それに、ずっとやっていると、新しい発見がなくなってしまう」

ときには弁護団内で、戦略をめぐって意見が対立することもある。

「レベルの高い体育会系の部活に似てると思っていて。優勝という同じ目標があるけど、選手の個性も強くて、戦略でいつも揉める。弁護士って基本的にお山の大将なんで。

私よりも起案できるプレーヤーはいるし、そういう人たちに気持ちよくお仕事をしてもらうための、マネージャーのポジションだと思っています」

個性派の意見をうまく調整し、ついた異名は「猛獣使い」。弁護士になる前の会社員やPTA役員などでの対人経験も生きているという。

●「知ってしまったら、もう戻れない」

再審事件については、国選制度が適用されず、ほとんどの事件で弁護団は手弁当で活動している。

それでも、大崎事件に入れ込む理由について、「知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れないから」と語る。

司法修習で配属された弁護士事務所で出会うまでは、大崎事件の存在を知らなかったが、調べていくうちに不思議な共通点も感じたという。

大崎事件の一審判決が出て、原口さんの無実を訴える戦いが始まった1980年、当時高校生だった鴨志田弁護士は父親を亡くしている。もともとはミュージシャン志望で、父親が存命なら法学部に進学もせず、母の故郷である鹿児島で弁護士をすることはなかったかもしれない。息子の誕生日は大崎事件が起きた日だ。

原口さんの「共犯者」とされた3人に知的障害があることを知ると、同じく知的障害を持っている3歳年下の弟のことを思った。やってもいないのに、自白に追い込まれたのではないかと想像できた。

「地位が人をつくるじゃないけれど、たまたまこの場所に置かれたので。必要に迫られた結果、再審制度のことも知る必要があったし、ほかの再審事件の弁護団とのつながりもできてきました」

4月1日からは、仕事の拠点を京都に移す。再審制度を変えるための東京でのロビー活動と、鹿児島での大崎事件の両方をにらんだ末の選択だ。

その大崎事件は3月30日で、第四次再審請求が始まって1年がたった。鴨志田弁護士によると、6月に新証拠の医学鑑定書を書いた医師の尋問がある見通し。遅くとも2021年度内には地裁決定が出そうだ。