使用価値のない現代アートに「100億」の値がつく理由
■前澤友作氏がバスキアの作品に投じた金額
2017年に、ジャン=ミッシェル・バスキアによるペインティング作品が約123億円で落札されたことが話題になりました。落札したのは、当時ZOZOTOWNを運営する企業の経営者であった前澤友作氏です。
なぜひとつのアート作品にこれだけの値がついたのでしょうか? バスキアの作品は、ごくシンプルに言ってしまえば「落書き」です。70年代、80年代の治安の悪いスラム街の壁に描かれていたグラフィティ・アートをアイデアにした作品ですから、100億円を超える値がつく理由が分からないという方もいらっしゃるでしょう。
アートの価値を理解する際に必要なのは、「使用価値」と「交換価値」の概念を理解することです。「使用価値」とは、商品そのものが日常生活の中で使われることによって生まれる価値のこと、「交換価値」とは、その商品を他の商品と交換するときの価値のことで、相手がその商品にどれだけの価値を見いだしているかにより変化するものです。
この2つの概念からアートを考えると、使用価値はほとんどありません。中には実際に使える工芸品などもありますが、多くの場合は飾って楽しむくらいの「使用価値」しかない。しかし、作品に込められた作者の思いや哲学が、人々から「価値がある」、つまり芸術として認められれば、アート作品はその希少性ゆえに「交換価値」がぐっと高くなります。
バスキアの作品についた123億円は、交換価値が時代の経過のなかで高まった結果です。バスキアに限らず、考えられないような高値がつくアーティストが誕生することは時々あり、購入した作品が、数年後に数倍、数十倍の値がつくこともあり得ます。アートこそ、ある意味で究極の高付加価値商品なのです。
■「現代アート」の価値を保証するもの
辞書で現代アートを調べてみると、「現代の美術。多く、20世紀以降、または第2次世界大戦の美術をいう」(小学館/デジタル大辞泉)とあります。この意味では、バスキアも現代アートに含まれると言っていいでしょう。
ただ、実は現代アートに明確な定義があるわけではないのです。また、現代に生きるアーティストの作品のすべてを「現代アート」と呼ぶわけでもなく、日本画や油彩画、工芸といった技法材料の制約も存在しません。では何が現代アートになるための要素なのか。私は拙著『アート思考』において、次のように解釈を示しました。
「現代社会の課題に対して、何らかの批評性を持ち、また、美術史の文脈の中で、なにがしかの美的な解釈を行い、社会に意味を提供し、新しい価値をつくり出すこと」
現代アートがこのような意味をもつとして、ピカソやゴッホのように歴史的な文脈から価値が確立されている作品と比べると、現代アートに破格の値がつくのは不思議に思われるかもしれません。しかし、長い時間の経過の中ではピカソやゴッホと同様の価値付けがバスキアなどの現代アートにも行われているのです。
では、まずはじめに現代アートの価値を保証するものは何なのでしょうか。私が思うに、それを可能とするのは、「アーティストの活動」なのです。もっと平たく言えば「命をかけた営みとしてアート活動」が最初にアートの価値を保証するものになるのです。
「なんだ、それは⁉ だれもが一所懸命に仕事をしているよ」「頑張っているのはアーティストだけではない!」それに「たんに頑張ればいいというものでもない」というかもしれません。
しかし、アーティストは、その度合いが常人を遥(はる)かに超えているのです。
自分自身の信じ方、自分の賭け方は通常の人間のそれではありません。歴史に残ったアーティストたち、例えばゴッホの生き方を見ればわかりますが、評価の判断基準ですら、通常のものを否定して、自らが探して、作り出しているのです。他人がどんなに批判しても、それを正しいという。その正しさの根拠は、もはや相対的には探すことができません。ゴッホがいいというから。それだけです。
アートの価値を保証するのは「アーティストの活動」ひいては「アーティストの命」と私がいうのはそのためです。なかなかのものです。もし興味をもっていただいた方がいらっしゃれば、アーティストたちに生き方をしらべてみるといいでしょう。自分自身の全存在をかけて妥協せずに制作することが、まずは一つの作品をアートにするのです。
技術の良しあしも、用いる手法も関係なく、アーティストが自分自身に嘘をつかず、生命をかけて生み出した作品であれば、どんなものでも私は観る価値がまずはあると考えます。そしてそれが歴史の中でふるいにかけられることで、強固なアートの価値が醸成されていくのです。というのも、アートが個人の表現であると同時に歴史の中で見られるものだというのは、長い時間の経過を経なければ見えてこない価値があるからです。われわれはフラットにいろいろなものを俯瞰しているつもりでいますが、案外、時代の檻の中に捉えられていて、限られたものしか見えていないものです。
アーティストたちは、作品の社会的な要求から作品を制作しているわけではありません。アーティストはただ自分の思うままに作品を生み出しているだけです。野生の動物がその命を全うするように“自らの命”を全うしようとしたら、アーティストと呼ばれるようになっていた、というのが正しい解釈でしょう。彼らは自分の人生をかけてギリギリのところを探求しているのです。
そうして彼らが生み出した作品に対して価値を見いだし、値をつけるのは受け手に委ねられており、これこそがアートの面白さであるとも言えます。いろいろな人が、それぞれの意見をもっていて、何を言っても許されるのがアートの世界なのです。
■アウトサイダー・アートが脚光を浴びた瞬間
アートの歴史を振り返ると、それまで社会から見落とされていたものが、突如として脚光を浴び、交換価値を高める瞬間があります。その一例が、「アウトサイダー・アート」と呼ばれる作品です。既存のアートの「外」という意味でアウトサイダーという言葉が使われているとおり、いわゆる美術教育から生まれたアートとは異なる独学のアートとして、今日へと続いています。
日本において、アウトサイダー・アートという観点で一般に知られているアーティストは、放浪画家としてテレビドラマでも取り上げられた山下清でしょう。山下は幼少期から軽度の知的障がいがあり、八幡学園という養護施設に預けられたのですが、八幡学園が開催した展覧会で、彼の作品が早稲田大学講師の目に留まります。この展覧会は、知的障がい者の作品を組織的に展示する試みとしては、日本で初めてのものでした。
その後、山下清をはじめとした障がい者の制作する作品は反響を呼びます。当時の美術誌を読んでいると、日本美術会の錚々(そうそう)たる人たちが、山下清らの作品について議論しています。当時の時代背景からして、障がい者は庇護されるべき対象であり、作品が展示されるにしても福祉の意味合いが強かったはずですが、突如として美術界の人々に新たな美としての驚きをもたらしたわけです。「これこそが近代人が求めている心の自由ではないか」といった批評もされました。
さらに世界を見てみると、西洋のシュールレアリスムも精神分析学や心理学の影響を強く受けており、フランスのシュールレアリスト詩人であるアンドレ・ブルトンも精神障がいをもった人の絵に強く影響を受けています。アフリカや中南米の美術など、「いまある世界」とは別の世界(アウトサイド)として、突如注目を集めたアートも数多く存在します。
これらは、西洋美術(ギリシャ・ローマ美術の延長上で歴史的に形成された美術)を中心に考えたときのアウトサイドであり、本来あった場所では、その場所の中心を担うアートなのですが、西洋から見たときにはアウトサイドになるということなのです。
文化というのは、フラットに境界なく広がっていると考えがちですが、文化は本来、内に閉じるものであり、外部を排除するものです。価値を共有する者同士をより強固な絆で結びつける役割をします。美術音楽などはそのための道具でもあり、他者を教化するために発達したメディアです。
興味深いことに西洋の近代美術だけが、外に開くという特質を顕著にもっており、アフリカ美術、あるいはジャポニズムで知られた日本美術などの外の文化を取り込んできました。そのことで、自分化して発展させ、世界化をしてきました。理解できなかったものが理解できるようになるということは、何かを発展させるためにまず必要なことでしょう。アートには、気づきがあるのです。
こうして歴史を振り返ると、アートには、社会において見逃されているところにスポットライトを当てる働きがあります。人種問題など、社会はいくつもの課題を抱えており、そうした課題に社会制度が適応できるまでに時間がかかるものですが、アーティストたちはそうした時代の変化をいち早く感じ取り作品として昇華します。現代アートの作品を通じて世の中を違った視点から眺めてみれば、未来に対するインサイトが生まれるかもしれません。
■「アイデアのプラットフォーム」の役割を担う美術館
私たちがアートを目にする場所として、もっとも身近な場所が美術館でしょう。現代アートを展示する美術館では、今の時代を生きるアーティストの作品が展示されています。
現代アートは何でもありの世界ですから、アーティストが自らの身体に針を刺して展示をする作品や、生きたままの細胞を展示する作品など、なかには目を見張るような作品もあります。こうした作品について、「展示すべきではない」といった意見が聞かれることもあり、私自身も、当然好き嫌いはあります。しかし、美術館の館長の立場から考えると、美術館とは「アイデアのプラットフォーム」ですから、表現の自由を縛るべきではないと考えます。展示内容によって年齢制限を設けるなど、パブリックな場として一定の配慮があるとしても、美術館で何を展示するかは、基本的にはアーティストやキュレーターに一任すべきです。
もっとも、人々が見たくない、怖いと考えていることでも、人知れずサイエンスやビジネスの世界では進んでいるという現実があります。たとえば遺伝子化学の世界では、「サイエンスで人間をどんどん生み出せばいい」という考えの人もいれば、「サイエンスは命の創造まで踏み込むべきではない」という人もいます。こうした社会の現実を踏まえ、現代アーティストは作品に反映させ、大衆の目にさらします。ここで議論が起きるのは、私は健全なことだと思っています。
これまでも、アートはまるで社会のトリックスターのように振る舞い、社会の内と外を行ったり来たりして、一定の距離をとりながら今の社会を相対化する役割を演じてきました。アートは人間に道徳を語り、ときに悪を語りますから、役立ちつつも、毒にもなるのです。
アートは、「食事をすると空腹が満たされる」といった、分かりやすい結果を得られるものではなく、その価値は説明し難いものです。しかし、価値が相対化し、何を信じるべきか誰にも分からない現代において、アートはあらためて社会の姿や、本質的な価値を考え直すきっかけになると確信しています。
自分自身を見失いがちな現代社会にあって、他人に振り回されずに自己の知見を養っていくということは、大事なことです。ただ、誰がどう見ても普遍的に「正しい」ことが、残念ながら見えづらくなっている世の中です。価値の相対化の罠に陥らずに、自分らしさを作り上げていく上でもアーティスト的な自己を軸にした価値の組織化は必要かもしれません。それを身につけるためにアートに触れるのも楽しいことかもしれません。
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秋元 雄史(あきもと・ゆうじ)
東京藝術大学大学美術館館長・教授/練馬区美術館館長
1955年東京生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒。1991年、福武書店(現ベネッセコーポレーション)に入社。瀬戸内海の直島で展開される「ベネッセアートサイト直島」を担当し地中美術館館長、アーティスティックディレクターなどを歴任。2007年から10年にわたって金沢21世紀美術館館長を務めたのち、現職。
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(東京藝術大学大学美術館館長・教授/練馬区美術館館長 秋元 雄史 構成=小林義崇)