現在は小中学生を対象にした野球塾を主宰している長坂秀樹氏【写真:小西亮】

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東海大三高で甲子園出場した長坂秀樹氏、東海大で野球人生の転機

 神奈川県藤沢市。駅からほど近いビルの一室に、小中学生を対象にした野球塾がある。主宰する男性は168センチと小柄だが、体の厚みはパーカーの上からでもよく分かる。かつて独立リーガーとして米国など4か国でプレー。プロ野球のドラフト指名寸前までいった右腕だったことは、そこまで知られていない。【小西亮】

 野球人生の風向きが変わったのは、大学2年生のころ。東海大三(現・東海大諏訪)時代に夏の甲子園に出場した長坂秀樹氏は、系列の名門・東海大に進学。1998年の全日本大学選手権ではエースとして準優勝に貢献した。プロ入りに向けて順風満帆だったが、チームの方針や指導をめぐって当時の監督と衝突。気持ちを制御できず、野球部を退部した。

 卒業後は東京の百貨店でジュエリーアドバイザーとして働いたが、未練は断ち切れなかった。「自分のことを1番表現できるのは野球しかない」。一念発起して2002年に渡米。独立リーグでキャリアを再スタートさせた。

 翌2003年の秋。帰国中に突然、知り合いから連絡が入った。「巨人に入るの?」。わけが分からずコンビニでスポーツ紙を手に取ると、でかでかと1面に「巨人 長坂 きょう入団テスト」の見出しが踊っていた。その後、関係者から連絡があり、内々に入団テストにエントリーされていたと把握。着の身着のまま会場に向かった。

「みんな自チームのユニホーム姿なのに、僕だけTシャツ短パン、くるぶしソックスで受験しました」

 巨人とは縁がなったが、その2年後の2005年。代理人を通じて、創設1年目を終えた楽天の入団テストに声がかかった。有望そうな選手に割り当てられていた1桁のゼッケンをつけたが、待っていたのは体力テスト。走って、飛んで「こんなことをするために来たんじゃない」。テストは受けず、途中で帰宅。もちろん不合格だった。

ソフトバンクの練習参加、評価上々で指名確実の声も…

 当時はまだ、高校・大学・社会人以外からのプロ入りが珍しかったころ。半ばNPB入りは諦めていたころに“3度目の正直”でソフトバンクの練習参加の話が代理人から来た。「今度は大丈夫だから」。そう念を押され、選手たちと一緒にプレー。食事の際、当時若手だった川崎宗則から「体でかいすね。内野手ですか?」と聞かれ、照れながら「いやピッチャーです」と返した思い出も懐かしい。

 2日に渡ってアピールし、周囲の反応は上々。最後は当時の王貞治監督と握手を交わした。マスコミにも報じられ、周囲からも下位で指名は確実だと言われていた。だが、蓋を開けてみると「長坂秀樹」の名前はなかった。「下位指名は状況によって変わってくる。やっぱり、上位指名でプロに行かなきゃダメだと思いましたね」。淡々と現実を受け入れ、また海を渡った。

 2009年まで米国をはじめ、カナダやコロンビアのチームにも所属。最速95マイル(約152キロ)の直球で、異国の打者たちをねじ伏せていった。帰国後は、当時の四国・九州アイランドリーグ長崎やBCリーグの新潟でプレー。2011年に現役を終え、野球塾「Perfect Pitch and Swing」を開いた。

 実現することはなかったNPB入り。自らで選び、歩んできた異色の道に胸を張る。ただほんの少し、今でも胸の片隅に引っかかっている思いもある。

「タイムマシンがあるなら、大学時代の自分のもとに行って『やめるなよ。辛抱してやれ』って言いますかね。あの時はとにかく意地張ってやってましたから。やめなければ、もしかしたらプロに入れたのかなって」

 野球にも、人生にも、“たられば”はない。分かっているからこそ、少年たちと笑顔あふれる日々を過ごせている。(小西亮 / Ryo Konishi)