批判は自由の象徴だ。お尻がむず痒い日本サッカーの今
日本代表戦が最後に行われたのは昨年12月。国内組で臨んだ東アジアEI選手権(韓国・釜山)だ。最終戦で韓国に敗れると、森保監督への世間の風当たりは突如、激しくなった。韓国に敗れたのだから、叩いてもいいんじゃないか。赤信号みんなで渡れば怖くないではないが、韓国の敗戦は言い出しにくかったことを、言い出しやすくなるきっかけになっていた。
E1選手権の前に行われたベネズエラ戦(吹田)も1-4で大敗していた。さらに、今年初めに東京五輪を目指すチームが出場したアジアU-23アジア選手権でも、グループリーグで敗れている。
森保監督は五輪チームの監督としても代表チームの監督としても、ボロボロの状態にあった。そのタイミングでコロナ禍に見舞われた。森保監督への批判は直ちに収束した。解任論を唱えている場合ではなくなった。
だが、そうこうしている間にJリーグは再開。最大5000人の観衆を入れて戦うまでになった。
こちらの平衡感覚はいま少しばかりおかしくなっている。お尻がムズムズする、据わりの悪い状態にある。
代表チームに監督批判はつきものだ。西野監督も、ハリルホジッチも、それ以前からずっと代表監督は批判の対象になってきた。それは風物詩というか、ある種のお約束のようなモノだった。代表チームは試合を年間、月の数ほど消化するので、サッカー界には常に批判が渦巻いていた。その言い出しっぺのような役を果たすことがしばしばあった者として言わせてもらえば、それはサッカー界の健全さを象徴する事象でもあった。日本にあっては珍しい、自由闊達にものが言える世界があった。
だが今年の1月以降、半年間、サッカー界に批判は湧いていない。Jリーグが再開されても湧く気配はさらさらない。サッカーがサッカーでなくなっている感じだ。Jリーグに対する批判がほぼゼロであることが、代表チームの活動が停止中のいま、ひときわ鮮明になっている。
Jリーグへの関心を低下させている要因のひとつだと考える。欧州、南米をはじめとする海外のサッカーにあって日本のサッカーに足りないものはいくつかあるが、これはその最初に来るものだと確信する。日本代表、森保ジャパンのサッカーのここがよくないとは普通に語られることだが、Jクラブのそれが語られることはほぼ一切ない。日本サッカーが抱える問題点、不自然さだと断言したくなる。
日本サッカー全体に目を通せば、追い風が吹いているように見える。とりわけ目に着くのが若手の台頭で2、3年前より明らかによい状況にある。志向するJクラブのサッカーも一頃に比べ、だいぶ攻撃的になっている。海外組では、久保建英が順調な成長を遂げ、日本の中心選手になることは間違いない状況だ。
しかし、それはサッカーを取り巻くほんの一部に過ぎない。これまでも述べてきたことだが、その国のサッカーは、選手のレベルだけに起因しない。様々な要素が絡み合い、まさに連鎖する関係にある。選手、監督、クラブ、審判、リーグ、観衆、メディア……というサッカーを取り巻く各要素の平均値こそがその国のサッカーのレベルになる。それぞれの要素は、悪く言えば足を引っ張り合う関係にある。選手がよくても、監督の采配が悪ければ試合には勝てない。ファンやメディアがその采配に何も意見しなければ、どうなるか。各クラブや協会、Jリーグにも変わろうとする機運が生まれにくくなる。この世界は停滞する。
選手のレベルだけが突出して上昇することはあり得ないないのである。サッカーは特に指導者、すなわち監督、コーチの質で決まると言われるスポーツであるだけに、選手のレベルと監督のレベル、どっちが上かと言う視点は常に持ち続けている必要がある。選手のレベルが監督のレベルを上回っている状態にあるとすれば、それは、選手にとって不幸以外の何ものでもないのだ。
E1選手権の前に行われたベネズエラ戦(吹田)も1-4で大敗していた。さらに、今年初めに東京五輪を目指すチームが出場したアジアU-23アジア選手権でも、グループリーグで敗れている。
だが、そうこうしている間にJリーグは再開。最大5000人の観衆を入れて戦うまでになった。
こちらの平衡感覚はいま少しばかりおかしくなっている。お尻がムズムズする、据わりの悪い状態にある。
代表チームに監督批判はつきものだ。西野監督も、ハリルホジッチも、それ以前からずっと代表監督は批判の対象になってきた。それは風物詩というか、ある種のお約束のようなモノだった。代表チームは試合を年間、月の数ほど消化するので、サッカー界には常に批判が渦巻いていた。その言い出しっぺのような役を果たすことがしばしばあった者として言わせてもらえば、それはサッカー界の健全さを象徴する事象でもあった。日本にあっては珍しい、自由闊達にものが言える世界があった。
だが今年の1月以降、半年間、サッカー界に批判は湧いていない。Jリーグが再開されても湧く気配はさらさらない。サッカーがサッカーでなくなっている感じだ。Jリーグに対する批判がほぼゼロであることが、代表チームの活動が停止中のいま、ひときわ鮮明になっている。
Jリーグへの関心を低下させている要因のひとつだと考える。欧州、南米をはじめとする海外のサッカーにあって日本のサッカーに足りないものはいくつかあるが、これはその最初に来るものだと確信する。日本代表、森保ジャパンのサッカーのここがよくないとは普通に語られることだが、Jクラブのそれが語られることはほぼ一切ない。日本サッカーが抱える問題点、不自然さだと断言したくなる。
日本サッカー全体に目を通せば、追い風が吹いているように見える。とりわけ目に着くのが若手の台頭で2、3年前より明らかによい状況にある。志向するJクラブのサッカーも一頃に比べ、だいぶ攻撃的になっている。海外組では、久保建英が順調な成長を遂げ、日本の中心選手になることは間違いない状況だ。
しかし、それはサッカーを取り巻くほんの一部に過ぎない。これまでも述べてきたことだが、その国のサッカーは、選手のレベルだけに起因しない。様々な要素が絡み合い、まさに連鎖する関係にある。選手、監督、クラブ、審判、リーグ、観衆、メディア……というサッカーを取り巻く各要素の平均値こそがその国のサッカーのレベルになる。それぞれの要素は、悪く言えば足を引っ張り合う関係にある。選手がよくても、監督の采配が悪ければ試合には勝てない。ファンやメディアがその采配に何も意見しなければ、どうなるか。各クラブや協会、Jリーグにも変わろうとする機運が生まれにくくなる。この世界は停滞する。
選手のレベルだけが突出して上昇することはあり得ないないのである。サッカーは特に指導者、すなわち監督、コーチの質で決まると言われるスポーツであるだけに、選手のレベルと監督のレベル、どっちが上かと言う視点は常に持ち続けている必要がある。選手のレベルが監督のレベルを上回っている状態にあるとすれば、それは、選手にとって不幸以外の何ものでもないのだ。