監督への批判は、そうした状況に陥らないために存在する。ただ感情のはけ口として存在するわけではない。選手以上に厳しい目が監督に向けられるのは、サッカー界の常識、摂理なのである。その覚悟がない人、つまり、他人から言われ弱い人は、監督になるべきではないのだ。そうした監督に、意見をすることができないメディアしかり。存在意義が問われることになる。

 だが、こうしたサッカー的な構造は、日本において他にそう多く存在しない。サッカーは特殊な領域に身を置いている。慣れていないのだ。Jリーグを中心にカバーする地方のメディアになによりその傾向がある。

 地元クラブへの応援の仕方が素直すぎるのだ。従来から存在するプロ野球の流れに従っているという感じがする。お互いの距離が近ければ、愛憎劇が繰り広げられてもおかしくないが、そうしたドロドロとした感情は、記事の中から見えてこない。悪く言えば綺麗事。嘘臭いのだ。

 サッカーではない他の概念に基づいて、サッカーと向き合っている状態だ。日本のネット社会との相性もよくない。誰々が誰々を批判した的な見出しをよく見かける。拡散と言えば聞こえはいいが、告げ口だ。他人が吐いた少々刺激的な台詞、毒気のある台詞を取り出し、あの人はこんなことを言っていますよと伝える。自分の意見を述べずに、人のフンドシで相撲を取ろうとする。サッカー的とは言えない手法が、世の中の常識になりつつある。

 批判というサッカー文化が、すっかり失われた状態にあるいまの日本サッカー界。居心地の悪さを覚えずにはいられないのである。