「撮り鉄」禁止だった時代の台湾鉄道の記憶
台湾の阿里山森林鉄道を走っていたシェイギヤード式蒸気機関車(筆者撮影)
日本の「撮り鉄」が台湾に遠征するのは今となっては珍しくないが、思えば筆者が初めて台湾の鉄道に接したのは1975年のこと。当時は蒋介石政権の時代で、中国共産党と台湾海峡を挟んでにらみ合いが続いていた。
その頃、まだ非電化だった台湾の主要幹線・縦貫線には、日本製の蒸気機関車D51形、C57形、C55形などが疾走し、支線にはC12形や大正生まれの8620形などが活躍していた。だが、鉄道は原則撮影禁止、憲兵によって取り締まられる状態だった。
今でこそ、台湾と日本の鉄道が姉妹鉄道の縁組をするなど鉄道を通じた日台の交流は盛んだが、かつて鉄道の撮影が困難な国情の中にあって、われわれ日本の鉄道愛好者と台湾の鉄道関係者との間に入り、鉄道趣味に理解を示してくれた先人がいたことも忘れられない。日台の鉄道愛好者の友好を築いた先人たちをしのびつつ、台湾の鉄道事情を振り返ってみたい。
「森林鉄道」に魅せられて
台湾における、当時の日本人鉄道ファンの強い関心の対象は「阿里山森林鉄道」であったといっていい。
シェイ式蒸気機関車は歯車で駆動する。シリンダーとギアのメカニカルな構造が魅力の1つだ(筆者撮影)
同鉄道は日本統治時代、豊富な森林資源の輸送を目的に建設された軌間762mmの鉄道で、1914(大正3)年に現在の本線部分が全線開通した。ふもとの嘉義駅から2250m以上の高さに挑み、ループ線やスイッチバックを駆使して登る本格的な登山鉄道だ。
私が台湾の鉄道を撮るべく、まず訪れたのも阿里山森林鉄道だった。目的は、ここで活躍していた珍しい「シェイ式(シェイギヤード)」と呼ばれる歯車式駆動の蒸気機関車だった。当時、日本にはすでに相当な「シェイ」ファンの先人がいて、自費出版などで本を刊行していた。筆者もそれらの写真に刺激されて台湾を訪れたのだ。
1970年代にはシェイのほか、旅客用列車としてはディーゼル機関車牽引の「光復号」やディーゼルカーによる観光特急「中興号」が阿里山まで運転されており、そのほかには各駅停車として、貨車と客車を連結した混合列車がほぼ1日を費やして運転されていた。
その後、阿里山へは立派な道路が建設され、鉄道は乗客のほとんどをマイカー、観光バスに奪われた。シェイは第一線を退いたが動態保存されており、ヒノキ製の木造客車を使った観光客用列車に用いられている。大井川鐵道や黒部峡谷鉄道との姉妹鉄道縁組も、日本、台湾双方からの集客の一環である。
鉄道撮影は禁止だったが…
今では日本から鉄道ファンが台湾を訪れるだけでなく、台湾にも多くの鉄道ファンがいる。しかし冒頭で述べたとおり、1970年代当時は原則として鉄道の撮影は禁止されていた。
ある時、筆者が鉄道沿線で列車を撮影していると、警官がやってきてフィルムを出せと迫ってきた。警官の横には密告者と思われる人物がにらみを利かせていた。が、警察官は取り出したフィルムの先を5cmほど引き出してカットし「これでいいです」と事なきを得た。密告者の手前の処置だという。警官も親日的な台湾人だったので「大岡裁き」をしてくれたのだと、ガイドの古仁栄さんは言った。
古仁栄さんは台湾の鉄道愛好者界の第一人者で、日本人鉄道ファンツアーの案内役としても草分け的存在だった。古さんは熱心な日本の鉄道愛好者でもあり、1980年代に日本の国鉄全線を完乗したというツワモノで、日本人鉄道ファンの心情を深く理解してくれた。
シェイ式機関車の前で。長谷川章氏(左)、その右下に古仁栄氏、帽子をかぶっているのが筆者(写真:青森恒憲)
懸け橋を築くうえでは、古さんの長年の友人であった元鉄道雑誌編集者の故長谷川章氏が果たした功績も大きい。古仁栄さんと組んで、おそらく初の台湾鉄道ツアーを行い、日本人鉄道ファンを台湾の鉄道へ誘った最初の人であろう。筆者も長谷川氏の案内で阿里山森林鉄道を訪れた。また、1986年1月に阿里山森林鉄道と大井川鉄道が姉妹鉄道として提携する際、当時の大井川鉄道副社長、白井昭さんの台湾鉄道関係者との友好にも尽力された。
現在の台湾と日本の鉄道の密接なつながりを思う時、これらの方々が日台の鉄道、そして鉄道愛好者間の絆を築いてきたことを忘れてはならないだろう。
台湾に普及した「鉄道趣味」
現在では台湾においても鉄道趣味が盛んだが、この1つのきっかけとなったのは2007年に開業した台湾高速鉄道(台湾高速鉄路)といってもいいだろう。「台湾新幹線」の開業により、日本から台湾への観光客や鉄道ファンの訪問もさらに増えた。ただ、日本人鉄道ファンの多くは高速鉄道よりも、台湾に残るローカル線に日本の懐かしい姿を追い求める傾向が強いように思う。
2007年に開業した台湾高速鉄道(筆者撮影)
筆者はこの頃、日本国内の鉄道ガイドブックを3冊刊行し、台湾でも中国語に翻訳されて出版された。高速鉄道の開業直後、台北の出版社を訪れて関係者たちとうたげを共にしたが、そこには台湾の鉄道写真家・呉柏青さんと鉄道ライターの許乃懿さんほか鉄道知識人の3人も同席した。
そのとき呉柏青さんは、風呂敷包みの中から筆者がかつて執筆した「ケイブンシャの大百科」3冊を取り出した。子どもの頃、この本で鉄道を知り、そして「鉄道写真の撮り方」を学んだというのだ。かつて鉄道にカメラを向けただけで憲兵が飛んできた時代があったことを思うと、台湾にも鉄道趣味が定着したことに歴史の流れを強く感じた。
現在の台湾を代表する鉄道、台湾高速鉄道は日本の700系をベースとした700Tが走り、「台湾新幹線」ともいわれる。
台湾高速鉄道は、当初はフランスとドイツの技術で計画が進んでいたが、1999年9月に発生した大地震を受け、地震対策の技術が卓越していた日本の新幹線方式を採用することになった。その結果、日本と欧州(ドイツ・フランス)の3カ国の技術が混在するシステムとなった。
鉄道技術者の島隆氏(筆者撮影)
その際、2002年に台湾高速鉄路から技術顧問の依頼を受けて台湾に派遣されたのが、鉄道技術者の島隆氏だった。「新幹線の父」と呼ばれる鉄道技術者、島秀雄氏の次男で、新幹線0系の台車設計や、東北・上越新幹線の200系の車両設計責任者などを務めた人物だ。
同氏は技術顧問として3カ国の複雑な技術の混在や人間関係などの調整を図って高速鉄道の開業にこぎ着け、今も台湾の鉄道関係者から尊敬の念を集めている。
進む日台の「鉄道友好」
台湾に「新幹線」が開業すると、国鉄にあたる在来線の台湾鉄路局も近代化を促進した。最近では日本製のTEMU1000型「太魯閣(タロコ)号」やTEMU2000型「普悠瑪(プユマ)号」などの特急車両を導入してスピードアップを図っている。
だが、2018年10月21日に普悠瑪号がカーブで速度超過による脱線事故を起こし、乗客18人が死亡、215人が負傷する惨事が起きたのは記憶に新しい。事故の起きた区間は高速鉄道と競合はしないものの、熾烈な競争を展開する台湾鉄路局の急激な近代化、高速化への焦りではないか、と思うのは筆者だけであろうか。
一方で、高速鉄道の登場によって在来線の活性化も進み、鉄道の旅を楽しむ人たちが増えていること、さらに日本の鉄道にも目を向ける台湾人の旅行者、鉄道ファンが増えているのは喜ばしい限りで、かつて鉄道撮影が禁止されていた時代から見れば隔世の感がある。
高速鉄道の開業からすでに10年以上が経ったが、今後も日本と台湾でお互いの鉄道に関心がより高まることを期待したい。