1978年にベルギーのブリュッセルで開催されたWorld’s Fair Groundsに出演したカーズ。左からエリオット・イーストン、リック・オケイセック、グレッグ・ホークス、デヴィッド・ロビンソン、ベンジャミン・オール(Photo by Ebet Roberts/Getty Images)

写真拡大

現地時間9月15日、心疾患により75歳で逝去したザ・カーズのフロントマン、リック・オケイセック。「燃える欲望」から「マジック」「ドライブ」まで、ポップ・ロックの鬼才が残した名曲たちを紹介する。

ニューウェーブのバンドでありながら、曲をトップ40にランクインさせる大衆性を備えたカーズを支えていたのは、気まぐれで尖ったポストパンクのメンタリティ、抜群にキャッチーなフック、そして生々しい欲望の描写を共存させるリック・オケイセックのヴィジョンだった。恐るべきタイトさを誇る1978年のデビュー作『錯乱のドライヴ/カーズ登場(原題:The Cars)』について、バンドは「実質上の『グレイテスト・ヒッツ』」と冗談混じりに語っていたが、彼らは80年代を通じて職人芸というべき優れた作品を発表し続けた。オケイセックはプロデューサーやソロアーティストとしても成功を収め、2011年に発表したカーズのカムバック作『ムーヴ・ライク・ディス』では、彼らがウィーザーやノー・ダウト、ザ・ストロークスといったフォロワーたちと対等に渡り合えることを証明してみせた。オケイセックが残した17の名曲を紹介する。

1.「ベスト・フレンズ・ガール(原題:My Best Friends Girl)」(1978年)

カーズ最初期の曲群のひとつであると同時に、オケイセックの最高傑作のひとつでもある「ベスト・フレンズ・ガール」で、彼はバディ・ホリーやカール・パーキンスをはじめとする50年代のロックンロールへの憧れを、硬質なギターサウンドと若者ならではの情熱や葛藤をもって表現してみせた。「歌詞の内容は僕の実体験に基づいているわけじゃない」彼は後にそう語っている。「親友に彼女を奪われるっていうのは、多くの人が経験しているだろうと思ったんだよ」バンドのデビューアルバムのセカンドシングルとしてトップ40入りを果たした同曲には、ニューウェーブ的な洒落たタッチはもちろん、「スウェードの青い瞳」「核のブーツ」といったオケイセックらしい不可思議なフレーズも登場する。彼は後にこう語っている。「曲を書いている途中で、『僕の親友のガールフレンド』っていうフレーズが出てこないことに気付いたんだ。そこで誰かがワープロで歌詞を書き出した紙に、僕は手書きでこう書き加えた。『彼女は僕の親友のガールフレンド / 僕の大親友のカノジョ / そんな彼女は僕の元カノ』」J.D.

2.「ムーヴィング・イン・ステレオ」(1978年)

意外とも言えるうねるようなグルーヴ、そしてニュアンスに満ちたリズムギターが魅力の「ムーヴィング・イン・ステレオ」は、カーズ史上最もセクシーな曲だ。1982年作の青春映画『初体験/リッジモント・ハイ』において、ジャッジ・ラインホルドがプールから出てくるフィービー・ケイツの姿を空想するシーンでそのインストゥルメンタル版が使われたことで、同曲はジェネレーションXの記憶に深く刻まれることになった。同曲はその後も数多くのサウンドトラックに収録され(パロディめいたものが多い)、最近では『ストレンジャー・シングス』の予告映像にも登場した。ラウンジ風のヴォーカルを披露しているのはベンジャミン・オールだが、彼の死後はオケイセックがライブの場で歌っていた(同曲はオケイセックとキーボーディストのグレッグ・ホークスの共作であり、デビューアルバムにおいてオケイセック以外が作曲に関わった唯一の曲でもある)。B.H.

3.「燃える欲望(原題:Just What I Needed)」(1978年)

「ただ楽しむことが大事っていう場合もあるんだよ」プロデュースを手がけたウィーザー『ブルー・アルバム』のレコーディング時にメトロノームの使用を勧めた理由について、オケイセックは今年7月に本誌にそう語っている。8分音符を正確に刻むリズムギター、そして普遍的なシンセのリフが登場する「燃える欲望」(作曲はオケイセックだが、ヴォーカルはベンジャミン・オール)は、彼のその哲学を如実に反映していると同時に、1978年発表のデビュー作が80年代のシーンを先取りしていた証拠のひとつでもある。彼が暮らしていたコミューンの地下室で作られた同曲の粗削りなデモは、1977年に開局したばかりだったボストンのラジオ局で頻繁に流され、バンドの躍進のきっかけとなった。B.H.

4.「グッド・タイムズ・ロール」(1978年)

ヴィンテージのロックやR&Bには屈託のないノスタルジーがつきものだが、ミドルテンポで刻まれるハードなストラトのサウンドとがなるようなコーラス、そしてオケイセックらしいヴォーカルが魅力の同曲は、シャーリー&リーが1956年にヒットさせた「Let the Good Times Roll」のような曲とは一線を画している。カーズ初期の時点で既に、オケイセックはポップにおけるあらゆるクリシェを実践していた。「あれは良き時代のロックンロールを僕なりに解釈した曲だよ。昔は良かったというようなものじゃなくてね」彼はかつてそう語っている。「古き良き時代のパロディみたいなもので、ノスタルジックなものではないんだ」H.S.

5.「今夜は逃がさない(原題:Youre All Ive Got Tonight)」(1978年)

オケイセックとカーズのメンバーたちは、まばゆいパワーポップと極端な不可解さの境界線を渡り歩き続けた。クイーンを思わせるバックコーラス(共通のプロデューサーであるロイ・トーマス・ベイカーの影響であることは疑いない)、フランジャーをかけたイントロのドラム、最初のヴァースにおける音程の狂ったハープシコードを思わせるキーボードのフレーズ、そして問答無用のフックまで、「今夜は逃さない」の4分14秒間にはバンドの全てが詰まっている。オケイセックによるエコーのかかったヴォーカル、そして自分への嫌悪感を表した歌詞に宿る切実さは、後に登場する型破りなフロントマンたちに大きな影響を与えた。スマッシング・パンプキンズは1995年頃に同曲をカバーしたが、ビリー・コーガンのヴォーカルは水を得た魚のように生き生きとしている。B.H.

6.「レッツ・ゴー」(1979年)

オケイセックは出来のいい曲であっても、必ずしも自分で歌おうとはしなかった。1979年にシングルとして発表された、自由奔放なライフスタイルを謳歌する女性についての同曲では、ベンジャミン・オールがヴォーカルを担当している。ハンドクラップ、フューチャリスティックなシンセのフレーズ、見事なツインギターのアンサンブル等が魅力のこの曲は、2ndアルバム『キャンディー・オーに捧ぐ(原題:Candy-O)』の1stシングルに選ばれ、バンドにとって初のTop 20ヒットとなった。バンドはクイーンとの仕事で知られるロイ・トーマス・ベイカーをプロデューサーとして再起用したが、オケイセックは前作よりもラフなアプローチにこだわった。「デビューアルバムの曲の中にはいかにも洒落たものがあったけど、2枚目では少しトーンダウンさせたんだ。バックコーラスとかは特にね」オケイセックはそう語っている。「彼との仕事は2度目だったから、意見も出しやすかったんだよ。『ロイ、今回はコーラスの重ね録りはやらないでおこう』ってね」P.D.

7.「キャンディー・オーに捧ぐ」(1979年)

「最初はエレキギターを中心とした、ストレートなロックのレコードにするつもりだった。でもアート寄りの方向に、自然とシフトしていったんだ」試行錯誤を重ねたバンドの初期について、キーボード担当のグレッグ・ホークスはそう語っている。「キャンディー・オーに捧ぐ」はその好例と言えるだろう。ニューウェーブらしい無機的なビート、ブルースさえ連想させるストレートな構成、大胆なまでに抽象的な歌詞など、様々なアイディアをわずか2分半に詰め込んだ同曲は、まさにミニマルポップの金字塔だ。ヴォーカルを務めたベンジャミン・オールがキャンディー・オーという名の女性に「I need you so」(元の歌詞は「fortissimo」だった)と訴える一方で、その歌詞には謎めいたキーワードの数々が登場する(紫色のハム 積み上げられたカード / 君が放つレーザーライト / すべては君が何にも縛られないことを示すため)。ホークスによるシンセのアルペジオと、エリオット・イーストンによる金切り声のようなギターの存在感も抜群だ。一筋縄ではいかないこのラヴソングのダークなムードは、1989年発表のメルヴィンズによるカバーでも見事に再現されている。同曲に漂う不穏なトーンについて、オケイセックは遠回しにヒントを与えてくれている。「『O』は『obnoxious(不快な)』の頭文字なんだ」H.S.

8.「危険がいっぱい(原題:Dangerous Type)」(1979年)

4分半の間に4行のフックが10回登場するこの曲で、オケイセックはミニマリズムを徹底的に追求している。ポップスに対する並外れた嗅覚を持つ彼は、その構成についてしばしば疑問を感じていた。「時々思うんだよ、今のシーンはなんてつまらないんだろうって」彼は1980年に本誌にそう語っているが、こう続けてもいる。「僕らは型にはまらないジャムバンドってわけじゃない。正確でタイトであろうとしているけど、それは必ずしも僕らの音楽が枠に収まっているってことじゃない。フォーマットや構成にこだわっているように思われているけど、僕のソングライティングの基本はエモーショナルなものを書くってことなんだ。人々の心に響くソウルミュージックのようなね」E.L.

9.「シェイク・イット・アップ」(1981年)

カーズの1980年作『パノラマ』はやや実験的な内容だったが、翌年に発表された『シェイク・イット・アップ』ではバンドのシグネチャーサウンドに回帰し、タイトル曲はそのことを象徴している。「ポップへの堂々たる回帰さ」当時オケイセックは冗談交じりにそう語っている。キーボードの電子音がリードするシンプルでキャッチーな「シェイク・イット・アップ」は、ダンスパーティーを盛り上げるニューウェーブの名曲だ。「あの曲の歌詞はあんまり気に入ってないんだけどね」オケイセックは後にそう語っている。肩の力が抜けた涼しげな雰囲気からは想像しがたいが、バンドはこの曲を仕上げるのに何年もの歳月を費やしたという。ファンとしては彼らの努力に感謝するばかりだ。「シェイク・イット・アップ」はチャートで最高2位を記録した。 J.D.

10.「アイム・ノット・ザ・ワン」(1981年)

『シェイク・イット・アップ』の中でも地味な印象のこの曲は、シングルカットされなかったにも拘らずファンに愛され、1985年発表の『グレイテスト・ヒッツ』にも収録された。ダークなムードとポップなメロディの融合は、オケイセックが最も得意とするところだ。「僕はずっとそういうものが好きだったんだ、60年代の頃からね」オケイセックはVanity Fair誌のMarc Spitzにそう語っている。「僕はディランの大ファンで、母さんはヴェルヴェット・アンダーグラウンドが大好きだった。僕はいつも左脳を刺激する音楽に惹かれたから、ヴェルヴェッツもカーペンターズも好きだった」この曲「アイム・ノット・ザ・ワン」は、映画『アダム・サンドラーはビリー・マジソン/一日一善』で、サンドラーが校長先生からラブレターを受け取るシーンでも使われている。R.S.

11.「Jimmy Jimmy」 (1983)

カーズでヒットを連発する一方で、オケイセックは初(にしてベスト)のソロアルバム『Beatitude』では、よりダークでパーソナルな方向性を追求した。「Jimmy Jimmy」には、バッド・ブレインズやスーサイド、Romeo Voidといった彼がプロデュースしたバンドの作品に見られたエクスペリメンタルなエッジが宿っている。カーズの『シェイク・イット・アップ』と『ハートビート・シティ』の間のブランクを埋める形で、彼は1983年に『Beatitude』を発表した。明らかにスーサイドの影響であるエレクトロニックなビートが印象的なこの曲で、オケイセックは「ゴミ出しをさせられる家には帰りたくない」というある少年の心境を歌っている(「君はうつ病か何かかい? 心ここに在らずって感じだ」)。同曲はMTVでやや話題になっただけだったが、オケイセックのソロとしては間違いなくベストの出来だ。R.S.

12.「マジック」(1984年)

400万枚を売り上げたカーズのアルバム『ハートビート・シティ』からの2ndシングル「マジック」は、ラジオ受けを前提に作られたような曲だ。そのサウンドは強烈でありながら、同時にエレガントでもある。大胆な3コードのギターリフとパンチのあるキーボードのラインはリスナーを一瞬で惹きつけ、2本目のギターが遠方で鳴り響き、快活なベースラインは曲をしっかりと支える。オケイセックは短いフレーズを滑舌よくスタッカートで刻み、バックコーラスはアンサンブル全体を優しく包み込む。イングランドで6カ月間かけてレコーディングされた『ハートビート・シティ』には、こういった要素が全編に見られる。「12時間かけて直感的なムードを表現しようとすることは、矛盾しているように思われるかもしれないね」ギタリストのエリオット・イーストンはそう語っている。「でも僕らは徹底的にやることで、イメージ通りの生っぽさを作り出したんだ」 E.L.

13.「ユー・マイト・シンク」(1984年)

ロバート・ジョン・"マット"・ランジ(AC/DC、デフ・レパード等)をプロデューサーに迎えて制作されたカーズの1984年作、『ハートビート・シティ』からの1stシングル「ユー・マイト・シンク」で、オケイセックはダークなヴィジョンをポップに昇華させる手腕を再び発揮してみせた。同曲のエクスペリメンタルなミュージックビデオは今もクラシックとして語り継がれており、1984年のVMAではマイケル・ジャクソンの「スリラー」を抑えて年間最優秀ビデオに選ばれた。効果的に用いられたコンピューターアニメーションは当時としては斬新だったが、ミニチュアのオケイセックがモデルのスーザン・ギャラガーが演じる女性を付け回すというシナリオに、バンドは当初難色を示した。Craig MarksとRob Tannenbaumによる著書『I Want My MTV』で、ディレクターのChris Steinはそのアイディアをメンバーに伝えた時のことを次のように語っている。「彼らとのミーティングの場でこう伝えたんだ。『洗面台の棚や石鹸の上で君たちが演奏するんだ。でもってリックは蝿になる』すると誰かがこう言った。『どうせなら便器のウンチの上で演奏するってのはどうだ?』あれには恐れ入ったよ」J.D.

14.「ドライヴ」(1984年)

カーズはギターポップのバンドとして知られているが、アメリカにおける彼らの最大のヒット曲は、シンセがリードするこの切ないバラードだ。オケイセックが作曲し、ベンジャミン・オールがヴォーカルをとった「ドライヴ」は、1984年にHot 100で第3位を記録した。スペーシーで夢見心地なLangeによるプロダクションと、シンセが生み出す浮遊感を刻むかのようなドラムも曲に華を添えている。The Chicago Tribune紙でのインタビューによると、録音したドラムはコンピューターで編集した上で、打ち込みという形で各曲に使われたという。絶妙に曖昧で、リスナーにあれこれと推測させる「ドライヴ」のヒットは、もはや計算通りだったに違いない。「君が倒れた時に迎えに来るのは誰? / 君からの電話を切るのは誰? / 君の夢の話に耳を傾けるのは誰? / 君が叫びだすと耳をふさぐのは誰?」同曲はオケイセックの私生活にも大きな影響を及ぼすこととなった。彼は1989年に、「ドライヴ」のミュージックビデオに出演したモデルのPaulina Porizkovaと結婚している。同曲は様々な形でアレンジされているが、オケイセックは必ずしもその出来には納得していない様子だった。1997年に行われたインタビューで、彼はこう語っている。「ロンドン交響楽団がアレンジしたやつを聴いたけど、思わず顔をしかめたよ」E.L.

15.「トゥナイト・シー・カムズ」(1985年)

カーズが5枚のアルバムによって既に不動の地位を確立していた1985年に、(所属レーベルの)エレクトラはベストアルバム『グレイテスト・ヒッツ』をリリースした。同作に収録された唯一の新曲であり、控えめなシンセのサウンドが印象的な「トゥナイト・シー・カムズ」は、元々オケイセックが自身のソロ用に温めていた曲だ。「当時ソロアルバムを作っていたんだ」彼は後にそう語っている。「あれはソロ作に収録されなかった曲のひとつさ。結局バンドでレコーディングして、単発のシングル曲として発表することにしたんだ」同曲を『グレイテスト・ヒッツ』に収録したことは紛れもなく正解だった。「トゥナイト・シー・カムズ」はトップ10入りを果たし、彼らの代表曲のひとつとなったからだ。エリオット・イーストンによる強烈なギターソロに感化されたスティーヴ・ヴァイは、そのソロを譜面に起こした上で1986年のGuitar Player誌に掲載し、イーストン自身にインタビューも行なっている。P.D.

16.「Emotion in Motion」 (1986)

オケイセックはソロとしても力作アルバムをいくつか残しているが、カーズのような成功を収めるには至らなかった。しかし1986年作『This Side of Paradise』からシングルカットされトップ15入りを果たしたこの曲は、カーズの名曲群にも決して引けを取らない。簡素でキュートなトラックと、情感たっぷりのソウルフルなヴォーカルが光るこの無防備なバラードで、彼は新たに手にした愛を慈しむと誓う。彼は当時Porizkovaとの交際を始めたばかりであり、切ないメロディと献身ぶりを描いた歌詞には、誰もが憧れるようなロマンスの喜びが滲み出ている。J.D.

17.「フリー」(2011年)

前作から24年のブランクを経て、カーズは2011年に復帰作にして最終アルバムとなる『ムーヴ・ライク・ディス』を発表した。空白の期間中に、バンドはベーシスト兼ヴォーカルだったベンジャミン・オールの逝去という大きな喪失を経験していたが、同作でもカーズのサウンドは決して失われていない。中でも「フリー」はその最たる例だと言える。ハンドクラップとレーザービームのようなシンセが飛び交うトラックに乗せて、オケイセックはタイムトラベルについての歌詞を早口で繰り出し、「君のダークな世界から抜け出す」と宣言する。遊び心と真剣さが同居する非の打ち所のないこの曲が、抗い難くキャッチーであることはもはや特筆する必要もないだろう。「思った以上にいい作品になったね」同作が発表された年に、オケイセックは本誌のDavid Frickeにそう語っている。「再結成するバンドの大半はロクでもない作品を出すけど、このアルバムはそうじゃない。僕は素晴らしいチームに恵まれてるよ。今も昔も変わらずね」