商船三井/「BLITZ」所属 倉橋香衣さん 撮影/齋藤周造

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 お盆休みの中日、海運大手、商船三井の社員食堂に設置されたコートで、子どもたちが車いすに乗り、夢中で車いすラグビーチーム「BLITZ(ブリッツ)」の選手を追いかけていた。

【写真】屋根の上に車いすを収納できる、倉橋さんの特殊なマイカーほか

「ほらみんなで囲め、囲め!当たって、当たって! 残り20秒。頑張れ〜!!」

 マイクを握り明るい声援を送るのは、車いすラグビー日本代表で唯一の女性選手、倉橋香衣さん(28)。笑顔からこぼれる白い歯が印象的だ。現在、商船三井の人事部に勤務しながら、同社がオフィシャルサポーターを務めるBLITZで活動し、'20年のパラリンピックを目指している。その日は商船三井の社員とその家族向けに車いすラグビー体験会が開かれていた。

つらいときも笑っている

 倉橋さんは大学時代のトランポリン競技中の事故で頸髄を損傷し、鎖骨から下の感覚を失った。肩と上腕の一部が動くだけで、指の感覚もない。リハビリ訓練中に目にした車いす同士の激しいぶつかり合いに魅せられ、車いすラグビーを始めた。

「最初はただ動くのが楽しかったんですが、そのうち戦術があることを知り、どんどんハマっていきました」

 車いすラグビーは四肢に障害のある人のための男女混合のチームスポーツ。バスケットボールサイズのコートを使い、ボールをトライラインまで運ぶのを競い合う。車いす同士がぶつかり合うことが許された唯一のパラリンピック競技だ。

 選手は障害の重い順に0・5から3・5点までの持ち点があり、1チーム4名の合計が8点以下でなければならない。そのうち女子選手が含まれる場合は、0・5点の追加が許され、合計を8・5点にすることができる。

 倉橋さんのように障害が重い0・5のローポインターの選手も、ポジションの取り方によって、敵の動きを止めるブロッカーとしての活躍が期待される。

「敵の動きを先読みして、うまくその進行を阻んで、味方がゴールを決められたときは、すごくうれしいんです」

 日本代表で世界的に有名なアタッカーの島川慎一さん(44)は、倉橋さんの選手としての成長をそばで見てきた人物だ。

「最初は女子選手が入ることのメリットで代表に呼ばれたのが大きかったと思いますが、上達も早いですし、彼女自身も勉強熱心なので、いいプレーヤーになっていますね。この競技は当たりの激しさが注目されがちですが、ローポインターの選手の動きが重要で、海外でも司令塔の役割を果たしています。最終的には彼女もそうなっていくと思っています」

 時折、メンバーやスタッフと冗談を交わす倉橋さんは、終始リラックスしてにこやかな表情だ。日本代表のキャプテンも務めた官野一彦さん(38)はその笑顔に癒されるという。

「いつもニコニコしてつらいときでも笑っているので。試合中は“歯を見せるな”とか叱られたりもしてましたけど、前歯が乾いて戻らないという(笑)。それぐらいいつも笑ってましたね。スキルでもメンタル面でもチームになくてはならない存在です」

 倉橋さんは'18年の世界選手権で日本の初優勝にも貢献した。自分たちのプレーによって、車いすラグビーやパラスポーツ全体への関心が高まることを期待しているという。

「ケガをするまではパラリンピックを見たこともなくて、どんな競技があるかも知りませんでした。障害者と関わったこともなく、何もわかっていなかったんです。自分がこういう経験をして、さまざまな障害がありながら暮らしている人のことを知り、学ぶことがいっぱいで、世界が広がったなと感じています」

ひとり暮らし、車で通勤

 倉橋さんは現在、埼玉県越谷市でひとり暮らしをしながら、商船三井で週2日働き、残りの日をBLITZや日本代表の練習に充てている。

「会社は私がまだラグビーを始めたばかりで、結果が出ていないときに採用を決めてくれました。大学卒業後も神戸の実家に戻らないでラグビーを続けると決めたので、仕事と競技を両立させる願いが叶えられて感謝しています」

 週1日は在宅勤務で、あとの1日はラッシュを避けた時間帯に約2時間かけて車で通勤する。愛車はアクセルもブレーキも手動で操作できる特別仕様車で、屋根の上にたたんだ車いすを積んでいる。

 会社の地下駐車場に到着すると、倉橋さんはルーフボックスを開いて車いすを降ろし、車の座席から乗り移る。到着から約5、6分で誰の手も借りずにエレベーターに乗った。人事部のある階に着くと、車いすでも届く低い位置のカードリーダーに社員カードをかざし、オフィスの中へ入っていく。通路に妨げとなるものはなく、スムーズに席についた。

 倉橋さんの入社後、さまざまな気づきから社内のバリアフリーが進んだ。これまで地下にしかなかった多目的トイレも今春、倉橋さんの働く階に増設されたという。上司である人事部長の安藤美和子さん(50)は言う。

「社会的な要請で義務的に整備するということではなく、倉橋という社員がいますから、少しでも快適に過ごせればいいと思いますし、ほかのお客様がいらしたときや同じような社員が入ったときに利用しやすいように改善しています」

 倉橋さんは自助具をつけてパソコンのキーボードを打つ。主な業務は部署内の伝票や社内アンケートの集計の入力で、在宅でも同様の作業をしている。その正確な仕事には定評がある。しかし、社内で人の手を借りるときに戸惑うこともあると明かす。

「人にものを渡すにしても、自分が何分もかけてゴソゴソやるより、ここ開けてくださいと言ったほうが、その人の時間も取らないし効率がいいとは思うのですが、できないことではないから、頼るべきか迷うんです」

 ともに働き、生活する仲間は介助者ではないので、どこまで頼んでよいのか悩むのだという。

「もっと気軽に考えればいいんでしょうけど。いちばんいいところを探っています」

 安藤さんも障害のあるなしにかかわらず、任せたい度合いについては、お互いに話し合えればいいと言う。

「ここまでは大丈夫だからいいですよというようなことも、最初は誰もわからないですけど、繰り返していく中でわかっていくんでしょうね。相手を慮りすぎると疲れてしまいますし、障害者だというだけで極端に気を遣いすぎるのもよくないですしね」

 倉橋さんは自らの経験を踏まえてダイバーシティ(多様な人材活用)をテーマに社内外で講演をすることがある。倉橋さんのリハビリ中のビデオを見た社員たちはみな感極まっていたそうだ。

「人それぞれ境遇も違い、ぶち当たる壁も違うと思うんですが、倉橋のような壁を乗り越えてきた人の話を聞くと、なんか自分もやれるかなあという気持ちになれますよね。

 とにかく彼女はいつも笑顔で明るいんです。採用の決め手も笑顔だったと聞いています。そこに至るまでにはつらいことも苦しいこともいっぱいあったと思うんですが、笑顔で切り開いてきたという、そういうところに私たちも勇気づけられているのだと思います」(安藤さん)

'11年4月24日、頸椎を脱臼骨折

 '90年、兵庫県神戸市で3人姉妹の次女として生まれる。ともに会社員だった両親は、休みになると子どもたちを車に乗せてキャンプに出かけたり、旅行に連れて行ってくれたという。「じっとしていられないくらい活発な子」だった倉橋さんは、体操を見るのが好きだった母の影響で小学1年の終わりから体操教室に通い始める。

「水泳やバレエなどほかの習い事もさせてもらったんですが、本当に好きな体操しか長続きしませんでした」

 車で送り迎えをしてもらい、週5、6回練習をした。

「体操は同じ練習を何回もして技ができるようになっていくんですが、ラグビーも同じで、ボールにタッチする練習を何回もして上達していくんです。それが大切なことは自分でわかっているので、何においても毎日コツコツやることは、苦にならないのかもしれません」

 '09年、埼玉県越谷市の文教大学教育学部に進学。小学校の教員免許と中学・高校の体育教師の免許が取れるという理由で選んだ。高校3年まで続けた体操はひと区切りし、トランポリン部に入部する。

「体操でトランポリンを使った練習をしたことがあって、怖かったり苦手意識があったんですが、体操と違った宙返りのやり方があったり、技ができるのがうれしくて、面白くなっていきました」

 大学3年になったばかりの'11年4月24日、越谷市のトランポリン大会の決勝前の練習でその事故は起きた。

「東日本大震災の影響で大学がずっと休校だったことと、腰を痛めていて全然練習ができてなくて、出場するつもりはなかったのですが、見ているだけでは楽しくないからやはり出ることにしたんです」

 最初に技に入るときからタイミングが合わないのがわかっていた。しかし順番を待つ人のことも気になり、「いっちゃえ」と再び技に入った。

 すると自分の頭と身体の位置がわからないぐらい混乱し、宙返りの途中で頭からトランポリンに刺さるように落ちた。

「次の瞬間、バーンと倒れて、呼吸が苦しくなりました。それからは意識が飛び飛びなんですけど、“ゆっくり呼吸しろー”というのは聞こえてて、フーフーと息をして少し落ち着いてきたら、救急隊員に“いま脚を触っているんですけど、わかりますか?”と聞かれて、わかりませんと答えました。首をやったら一生歩けないのは何となく知っていたんですけど、感覚がなくなるということは知りませんでした」

 倉橋さんは頸椎を脱臼骨折していた。救急搬送された病院で、5時間かけて首の骨を固定する手術を受けたが、脳とつながる中枢神経が傷ついており、鎖骨から下の感覚がほぼなくなってしまった。

 同じ学部に所属していた親友は、倉橋さんの携帯に送ったメールに気づいたお母さんから、その一報を受け取ったという。

「そのときはまだよく状況がつかめずにいました。お母さんは香衣がトランポリンをしていたことやその前に体操をさせていたことがダメだったのかなとご自身を責めていらっしゃいました」

 倉橋さんもその後、母から同じ言葉をかけられた。

「母には“体操をやっていたおかげで生き延びたんや”と言いました。当時は身体も太ってて、首も太くてムキムキしてたんです。あの体重で頭から落ちて生きていられたのは、首の筋肉を鍛えていたおかげなので、本当に体操をやっていてよかったと思いましたから」

前向きになれた理由

 手術後、堪え切れない痛みからは解放されたが、寝たきりの生活を余儀なくされる。頸髄が傷ついたことにより、自律神経の働きが弱まり、血圧の調整もできなくなった。

「頭を起こすだけで血圧が下がってしまうので、少しずつベッドの角度を上げて慣らしていって、ベッドの上に座れるようにしていきました」

 ケガ後、はじめて倉橋さんと対面したときのことを前出の大学時代の親友が語る。

「最初、なんて言ったらいいのかわからなかったのですが、香衣が“もう足は動けへんかも”なんて笑いながら言ってて、どうしようというようなことは一切言わなかったので、私や周りが泣いちゃダメだなと思いました」

 見舞うたびに鉛筆が持てるようになったことやフォークが使えるようになったことをうれしそうに話し、「リハビリのために神戸に戻る。早く動けるようになりたい」と何度も口にしていたという。

「私が悲しい気持ちになる前に香衣がもう前を向いていたので、彼女がすることを応援しようと思いました。一緒に泣いたことも香衣が泣いているのを見たことも1回もないです」

 倉橋さんが前向きな気持ちになったわけを正直に話してくれた。

「ケガをしたのは腰が痛かったり練習をしていなかったということもありますが、前日にバイト先の人に誘われた飲み会に顔を出して、寝不足で試合に臨んだという、選手としてダメな姿勢も要因だったと思っています。あとで、その方たちから“自分たちが呼ばなければよかった”と言われたんですけど、私が決めて行ったわけだし、あんな過ごし方をしてたら、そりゃケガをするだろうなと。

 それを後悔するぐらいなら自分が動けるようになればいいと思ったんです。自分の好きなように好きな生活ができれば、たぶん後悔はしないだろうなと。リハビリとか今できることをしっかりやっていこうと思いました」

 倉橋さんのように脊髄を完全に損傷してしまった場合、現在の医学では機能回復は難しいといわれている。ケガ後の生活の質は、リハビリ訓練で残った機能をいかに活用できるようにするかが大きなカギとなる。

 事故から6か月目、神戸市の兵庫県リハビリテーション中央病院に転院した。作業療法士の安藤芽久美さん(35)が当時の倉橋さんの様子を語る。

「当院にいらしたときはまだ上手に車いすにも座れない状態だったんですが“私はひとり暮らしをするんや”という明確な目標をお持ちでした」

 まずはベッドの上で起きたり座ったりする動作から始め、次に車いすに移って、自分でこいで筋力と体力をつける練習を長い時間をかけて行った。

「ひたむきな努力家で頑張りは抜きん出ていましたね。ひとりで車いすに乗れるようになると、ほとんど部屋には戻らずに広場でずっとこぐ練習をしていました。指もなかなかうまく使えませんから、訓練室でハサミを使うなど細々としたことの練習をずっとしていました。その姿はやはり目立ちますし、周りの人に影響を与えていましたね。

 あの子が頑張っているから自分も頑張ってみようかというふうに、みんなを勇気づけていました」

自分が好きな服を着たい

 自立して生活するために排泄や着替え、入浴などの練習もした。排尿はカテーテルを使って導尿を行い、数時間ごとにパックを取り換える。排便は座薬挿入機を使い、決まった時間に出すようにする。今はだいたい週2回、3〜5時間をかけて行いルーティン化しているという。

 衣類は障害者が着脱しやすいファスナーやマジックテープがついたものもあるが、自分の好きなものを着たいと、手間がかかっても普通の衣類を着る訓練をした。入浴はお風呂用の車いすに乗って行う方法を習った。見守り続けた作業療法士の安藤さんが言う。

「工夫をすればいろいろなことができるようになるんです。倉橋さんも自分でできることがどんどん増えて、周囲と励まし合う中で、本当の明るさや強さを取り戻していったのではないかと思います」

 同じ病棟には事故で手を切断してしまった人やショックで精神的につらくなってしまっている人、現実を受け入れられずにいる人もいた。倉橋さんはそうした人たちと話すことでさまざまな境遇や考えに触れていく。

「周りも私のことをあの人は何であんなヘラヘラしてるんだろうと思ったはずです。でも、そうやって交流する中で、みんなで頑張れたかなと思います。障害者同士、はたから見ればどっちも同じに見えるかもしれないですけど、自分たちにしてみたら、“あの人のほうが手がきくからあれができるんや”とか違いがあるんで、こんな手で助け合いながら、わちゃわちゃやっていましたね」

 '13年1月、病院と同じ敷地内にある自立生活訓練センターに移り、車の運転やパソコンの操作などを練習した。同10月、大学と同じ埼玉県内にある国立障害者リハビリテーションセンターの自立支援局へ入り、ひとり暮らしをしながら大学に通う準備を進めていった。'14年4月、ついに念願の復学を果たす。

再び大学へ、そして母の反対

 リハビリ期間中は周囲に勇気を与えていた倉橋さんだが、大学に戻った当初がいちばん弱気になったという。復学して最初に感じたのは健常者とのスピードの違いだった。

「授業でメモを取るのもついていけない感じでした。同級生たちはとっくに卒業してしまっていて、知らない人の中に3年遅れて入りましたし。最初のうちは大学の元の友達に“授業が追いつかない!”とか“周りにこれ頼みたいけど迷惑かなぁ?”なんてこぼしていました。

 でも私は昔からなんやかんやと愚痴っては結局、自分で解決していることが多かったので、友達もまた言ってるなくらいで聞いててくれて(笑)。私としては話をするだけで満足して、また次の日から元気になれました」

 大学へは車での通学が許されていたが、建物にはエレベーターがなく、ほとんどが階段だった。誰かの手を借りなければ授業のある教室までたどり着けなかったため、最初は年下のクラスメートたちの様子を窺い、何時までに行けば教室まで運んでもらえるだろうかと予想をしながら大学へ行った。

「だんだん一緒に過ごしていくうちに友達にもなるから、車で到着したところを通りがかった人に一緒に教室へ行ってもらったり、6階までみんなで担いでもらったりしてました。教授に“お前、いろいろ引き連れて桃太郎みたいやな”と言われてましたね(笑)」

 友人たちは教室の扉に倉橋さんが出入りしやすいように紐をつけてくれたり、唯一あるエレベーターが点検中になったときはいったん教室を出た人も戻ってきて4階から下まで運んでくれたという。

「試験は先生に相談して、筆圧が弱いのでボールペンで書かせてもらったり、車いすが無理な教室のときは別室で受けさせてもらったりしましたが、ほとんど普通に受けることができました。でも授業に出席できたのは、本当に周りのおかげだったと思います」

 国立障害者リハビリテーションセンターにいるときに出会った車いすラグビーに夢中になり、'15年4月からはクラブチームBLITZに参加した。倉橋さんは大学卒業後もBLITZの活動を続けたいと関東に残る決心をする。

 これには当然、家族の反対があった。その胸の内を母が語る。

「中途半端な気持ちでやってほしくなかったですし、反対されても絶対続けようという気持ちがないと無理だと思ったので、何があっても反対しようと決めました。本当は地元で一緒に暮らせたらと思っていましたし。そうしたら自分で就職先も決めてきたんです。これというものがあったら、そこへブレずに向かっていく子なので。その点は何も心配してないです」

 倉橋さんもそんな母への思いを話す。

「実際こういう生活をすると動きだしてからは、やってることに反対せず応援してくれています。ありがたいです」

壁のない社会へーー

 '16年4月、競技と仕事の両立に理解を示してくれた商船三井に入社する。'17年1月には車いすラグビー連盟から日本代表の申し出があり、同3月、カナダで開かれた大会で代表デビューした。それからの活躍は前述のとおりだ。

 BLITZのトレーナーを務める、理学療法士の加藤翼さん(28)は、いつも近くで倉橋さんの頑張りを見ている人だ。

「自分でやれることは自分でやると貫き通しているのは、いい意味で意地っ張りだからかなと思います。口にしたってしかたないような愚痴をお互いに言い合うこともありますよ。でも、それでスッキリするので。来年に向けていろんな人の力も借りながら、できる限り彼女をサポートしていきたいと思っています」

 ときとしてアスリートはケガや故障をともなうが、前出の上司、安藤さんは倉橋さんの身体を気遣いこう話す。

「試合に出られなかったりすると、彼女はせっかく応援してもらっているのに申し訳ないと思うようです。でも、そういうときは焦らずにきちんと身体を休めてほしいと思うんです。

 彼女がパラリンピックに集中している今、言うことではないですが、入り口はアスリートというかたちで採用しましたけど、あくまで倉橋という人間を採用したので。例えばもし車いすラグビーを引退して、別の人生を歩みたいということになったとしたら、そのときはそれに沿った仕事の場を提供したいと思っています。彼女の場合、企業人としてとか指導者としてとかいろんな生き方が考えられると思いますから」

 東京パラリンピック開幕まで1年を切った。カウントダウンセレモニーが催され、機運が高まる一方で、障害者スポーツを取り巻く環境整備はまだ十分とはいえない。

「チームメートが練習場所を探してくれるんですが、車いす競技は床にキズがつくという理由で断られることが多いんです。実際にはキズはあまりつかなくて、タイヤの跡はつきますが、それはふいたらきれいになります」

 昨年から東京都品川区にパラリンピック競技の強化を目的としたパラアリーナがオープンしたが、'20年までの限定的なものだという。倉橋さんは健常者でも使いやすい仕様になっているので、同様の施設が増えればいいと話す。

「みなさんこうしたらいいでしょう! なんて、自分から何か発信するということは考えてないです。私はただラグビーが楽しくてやってるだけなので、一生懸命な姿を見て、元気が出る人がいてくれたらうれしいです。そうして来年に向けてパラスポーツ全体が盛り上がって、'20年以降もそれが続いていったらいいと思っています」

 ひいては障害者と健常者がお互いに壁をつくらず生活をともにする社会になっていけばいいとも。

「障害とか健常とか関係なく気軽にと思うんですけど、実際、私が健常者で、車いすの人を見かけたとき、声をかけるかといったらわからないし。自分に本当に余裕があるときに、ひとりの人として普通に接してもらえたらいいと思うんです。

 声をかけてくれる人って、何か手伝いますか? と聞いて、大丈夫ですと言ったら、サーッと去っていくみたいな感じなんで。そういう人はたぶん車いすとか関係なしにただ気になって声をかけてくれてるんだと思うと、そういうのこそが壁がない状態なのかなと感じています」

「自分の好きなように生きられたら後悔はしない」と貫いてきた倉橋さんの進む道。その先に広がるのは、障害の有無にとらわれないノーサイドの世界。それは東京2020から続いてゆく。

取材・文/森きわこ(もりきわこ)ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」