CoCo壱番屋の創業者「15歳までローソク暮らし」からの逆転
いまや国内に1264、海外に180店舗と他の追随を許さない、外食カレーの王国を築いた男・宗次徳二氏。前のめりに歩んできた人生の原点には、不幸な生い立ちをも撥ね返す、「行きあたりばったり経営」があった!
「何もかも、行きあたりばったりでやってきたからねえ」
徳二宗次氏(70)は事もなげに笑った。2020年中のインド出店を発表した「カレーハウスCoCo壱番屋(以下、ココイチ)」。日本最大のカレーチェーンをゼロから築き上げた、日本の外食産業史上最大の成功者の一人だ。なのに、カネにも名誉にも執着がない。
物心ついたころには尼崎の児童養護施設におり、雑貨商を営む養父母に引き取られた。だが、養父は競輪にハマって店を潰し、追われるように岡山へ。雑草を食べるほどの貧困に喘ぎ、家も転々。養母は、行き先も告げずに家を出た。
「そんな養父も、たった一人の同居家族。気に入ってもらおうと必死でした。パチンコ店でシケモクを拾って渡すと、笑顔で褒めてくれたんです」
実親のことは何も知らない。
「それが、数年前に司法書士から連絡がありました。実父が亡くなり、彼名義の土地があるとのことでした。よくわかりましたよねぇ。全部権利は放棄し、それっきりです」
当時から貧しくとも、周囲を羨むことはなかった。
「15歳まで家に電気も通ってなくて、ローソクの灯りで暮らしていました。クリスマスの日は友達らとケーキ屋に行ったりしたけど、20円のショートケーキをみんな嬉しそうに買って行くのを、ただ見ていただけ(笑)。人と自分を比較しないよう、頭の中ができてるんです」
小学校高学年で養母が戻り、名古屋でつかの間の親子3人暮らし。母はおでんなどを売る屋台を引いていた。
「休みの日はときどきカレー屋にも連れていってもらいましたよ、アルミの皿のね。美味しかったという記憶しかないけど(笑)。それより、母がおでんで出したおでん種の作り損ないを食べさせてくれるんだけど、ご馳走のように美味しくてね……」
高校卒業後、「毎日車に乗れるから」と、不動産会社に入社。営業マンになった。
「そしたらおもしろくて、天職に思えた。そこで24歳で独立。だけど、妻と相談し、安定のために日銭商売もしてみようと、喫茶店をやろうと思いついたんです」
それが、ココイチの原点である喫茶店・バッカスだ。
バッカス
「それまでは、チリンと鳴る電話を待っているような商売でしょ。お客さんが次々に訪れてくれること自体、衝撃でした。店は妻にまかせるつもりだったけど、手伝いで店に立った初日に『自分の天職はやっぱりこっちだ』と思い、その後すぐに軌道に乗っていた不動産業を廃業しました」
次にコーヒー専門の「浮野亭」を開店。バッカスでは、カレーが評判になっていた。
「それで昭和53(1978)年、29歳でココイチを開店します。じつは当初はカレーと牛丼の店をやろうと、店名も『C&G』と決めていたんです。
だけど、東京に牛丼店の視察に行ったとき、サラリーマンが丼を忙しなくかき込む姿を見て、これは自分が描いていた商品とは違うと思いました。すぐにカレー一本でいこうと考えを変えました。店名の『CoCo壱番屋』も、帰りの新幹線で思いついたものです」
ココイチ1号店
店名の “ここが一番や” とは裏腹に、1号店の西枇杷島店(現・愛知県清須市)は田んぼに囲まれた超三流立地。
「だから、ともかく接客第一を心がけました。愛知ではコーヒー1杯にもピーナツの小皿をサービスで出すのに、ラッキョウも有料にしましたが、それでもお客様は口コミで広げてくれました」
オープン当日にフランチャイズ(FC)展開も思いついた。
「カレーは調理もオペレーションも簡単だし、FCに向いたビジネスだって。FCの知識なんかなかったのに(笑)」
翌年、ココイチ3号店の開店とともに、繁盛店の「バッカス」「浮野亭」を手放す。宗次は “行きあたりばったり” で自己流の決断を重ね、ココイチを急成長させていくのだ――。
(週刊FLASH 2019年9月3日号)