美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【上・浪士組編】

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幕末、多くの志士たちが日本の未来を斬り拓こうと刀を奮ったことは広く知られるところですが、中には男性だけでなく、女性が活躍した記録も一部に残されています。

今回はそんな一人・中沢琴(なかざわ こと)のエピソードを紹介したいと思います。

剣術家・中沢孫右衛門の娘として誕生

中沢琴の生年ははっきりしないそうですが、亡くなった昭和二1927年に「米寿(88歳)前後」だったと言うので、逆算すると1839年前後、天保年間(西暦1831〜1845年)ごろと推測されます(ここでは便宜上、天保十1839年生まれとします)。

琴は上野国利根郡利根村穴原(現:群馬県沼田市利根町穴原)にある法神流剣術の道場主・中沢孫右衛門(まごゑもん)の娘として生まれました。

長刀で挑む琴と、鎖鎌で応じる良之助の試合(イメージ)

幼少より男勝りのお転婆で、兄・良之助貞祇(りょうのすけ さだまさ)と共に剣術や長刀、鎖鎌など武術の修行に励み、成長するにつれて長刀では父や兄を凌駕する腕前を見せたと言われています。

そんな琴が数え25歳となった文久三1863年、彼女にとって人生の転機となる報せが舞い込んだのでした。

男装して浪士組に(無理やり)参加!

京の都へ上る将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の警護を目的として浪士組(ろうしぐみ)が結成されることとなり、身分や前歴を問わず腕に覚えがある者が各地で募集されたため、琴は兄・貞祇と一緒に応募しました。

しかし、彼女の名前が浪士組の名簿にリストアップされることはありませんでした。おおかた募集担当者あたりが「ここは女の来るところではない。帰れ!」などと追い返したのでしょう。

ここで大人しく引き下がったのか、あるいは「女だからと侮るのは、腕前を見てからにしてもらおうか!」などと食い下がったのかは確かではありませんが、いずれにせよどんなに強くても、隊列に女性が加わっているのは浪士組の外聞に差し障ります。

「……女の姿が悪いと言うなら、男の格好をしてやろう!」

そこで琴は髪を髷(まげ。おそらく総髪)に結い直して、名前も男らしく(琴之助?などに)改めたでしょう、再び応募にやって来ました。

男装で出直してきた琴(イメージ)。

「兄上!遅れ申した!」

貞祇の「弟」だと言い張りましたが、やっぱり正式な参加は認められず、ゴネにゴネた挙げ句、非公式に同行が黙認されたようです。

かくして琴は男装の女剣士として、激動の幕末にその一歩を踏み出したのでした。

モテすぎたイケメン女剣士、新選組(壬生浪士組)に入りそびれる

さて、めでたく浪士組に(無理やり)参加した琴ですが、背丈は五尺六寸(約170cm)という男性にもまれな長身で、かつ顔立ちも整っていたらしく、京都に到着すると女性はもちろん男性からも言い寄られて大層困ったそうです。

そんな中、浪士組の発起人である清河八郎(きよかわ はちろう)が、幕府の意向に叛いて浪士組を尊皇攘夷の先駆けとするべく、江戸へのとんぼ返りを指令。

清河八郎。Wikipediaより。

「ええっ?ようやく京都に来たばっかりなのに!」

上洛される将軍様の警護と聞いて遠路はるばる京都まで来たのに、将軍様もおいでにならない内に江戸へ帰るとは納得できません。

浪士組の中には少なからず動揺が走り、江戸への帰還に反対した近藤勇(こんどう いさみ)や芹沢鴨(せりざわ かも)らは京都残留を決意し、壬生浪士組(みぶろうしぐみ、後の新選組)を結成。

近藤勇。Wikipediaより。

それを聞いた琴は、自分も参加しようと兄・貞祇を誘います。

「兄上!このまま江戸へ帰っては『何しに京まで行ったのか』と人に笑われてしまいます。ここは一つ彼らに合流して、京都で一旗あげましょう!」

……しかし貞祇は、興奮する琴を冷静に諭します。

「あのな琴。腕を奮いたいお前の気持ちは解らんでもない。しかし、浪士組を抜けるということは、幕府の扶持も後ろ楯もない、単なる浪人になるということだ。わしは兄として、大事な妹にそんな暮らしはさせられん」

無理もありません。その後、壬生浪士組は京都守護職であった会津藩の庇護を受けて存続できましたが、それはあくまで結果オーライであって、この時点でそんな確証は何もありません。

常識的に考えれば、京の都で物乞いか強盗にでも成り下がるのがオチです(実際、そのような末路を辿った者もいたでしょう)。

志なき志士の末路

しかし、琴も強がって聞き入れません。

「……尽忠報国の志あらば、それしきのこと!兄上が帰りたければ帰ればよい、私は一人でも参ります!」

「そうは行かん。兄一人おめおめと帰っては、父上と母上に申し訳が立たない。ここはどうあっても、一緒に江戸へ帰るのだ」

「嫌です!」

「そもそもだ。此度の江戸帰還とて、ただ帰るのではなく、上様の御為に務めを果たすべき地が、京の都から江戸へ変わっただけのこと。真に尽忠報国の志あらば、どこであろうと己が最善を尽くすのが、武士のあるべき姿、とるべき道であろう。違うか?」

そう言われてしまうと、琴は返す言葉もありません。

「……はい」

さらば京都

かくして兄に説得された琴は仕方なく江戸へ帰るのですが、もしも琴が壬生浪士組に入っていたら、近藤や芹沢たちと、また別の歴史を刻んでいたのかも知れません。

しかし、江戸に帰ったら帰ったで、琴にはまた新たな人生の転機が訪れるのでした。

【中編に続く】

※参考文献:
岸大洞ほか『群馬人国記 : 利根・沼田・吾妻の巻』歴史図書社、昭和五十四1979年4月
石村澄江『上州を彩った女たち』群馬出版センター、平成二十六2014年11月
石川林『事件で綴る幕末明治維新史 上巻』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、平成十1998年6月
斎藤正一 著/日本歴史学会 編『庄内藩』吉川弘文館、平成七1995年1月

中沢琴(なかざわこと)