日本の会議は、なぜ明確な主張がないまま「全会一致」を選ぶのか。明治大学の小笠原泰教授は「日本では説得力よりも『相手が納得するかどうか』を重視する傾向が強い。これは欧米人の『議論』とはまったく異なる」と分析する――。

※本稿は、小笠原泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ 時代に先駆け多様なキャリアから学んだ「体験的サバイバル戦略」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/aerogondo)

■日本の「議論」のイメージは攻撃的?

一般的に、「日本人は議論が苦手である」といわれていますし、そもそも議論が好きではないようです。「議論(意見)を戦わせる」などの用法に顕著なように、日本語の「議論」という言葉には、攻撃的な含意が強いからなのかもしれません。

また、日本人は、議論と関わる英語のcriticalを「批判・批評」ではなく、「非難」の意味で捉えたり、aggressiveを「積極的」というよりは「攻撃的」と否定的に捉えているふしがありますが、どちらの単語も英語では否定的な意味だけではありません。つまり、「こころ優しい」日本人は、言葉にせよ、態度にせよ、自分を積極的に他者に対峙させること自体、とかく攻撃的なので良くないと捉える傾向が強いのではないでしょうか。

しかし、加速度を増す不可逆なグローバル化に、日本社会がいや応なしに適応を迫られる中で、この問題を、日本は「こころ優しい」同質社会だから「議論の必要がない」などという説明で、もはや片付けるわけにはいかないでしょう。

本稿では、日本人の議論の特色、それが欧米人の議論と、どのように違うのかを明らかにし、彼らと建設的な議論を積み重ね、実のある結論を導くための方法を探りたいと思います。

■英語の「議論」は大きく3つに分けられる

まず、日本語の「議論」には、どんな特色があるかを整理してみたいと思います。新和英大辞典で「議論」を引いてみると、はじめにargumentが出てきます。これが、一般的な「議論」の対応訳であると言ってよいでしょう。これに続いて、discussion、debate、controversy、disputeといった単語が挙げられています。最後の2つは「議論」の一部ではあっても、争っている状態に主眼があるので、ここでは除外します。

まず、argumentは、相手が存在し、それぞれの意見があり、同意か不同意かを前提として、主張し合うことと言えます。そして、最終的には、agree to disagree(不同意に同意)を許容します。discussionは、討議と訳されますが、決定することを主眼に置いて、何らかの主題について、意見の異なる相手と意見を交わしていくことと言えるでしょう。

また、debateは、討論と訳されるように、マナーとルール(例えば、相手の意見を論破しても、相手の人格を攻撃してはいけない)を守りながら、論を戦わせて、相手を論駁(説得)し、勝ち負けをつけることに主眼を置いていて、argumentやdiscussionと比べて、様式があり、形式化されていると言えます。

これら3つは、結果と、そこに至る過程が多少異なりますが、まず、自分の明確な意見を持つことを前提とし、相手の異なる意見を認めることが出発点となります。

■意見をぶつけるというより「対話」に近い?

debateについて述べたので、日本語の「議論」を考える上で、debateと対で語られるdialogue(対話)についても触れておきます。

英語による対話の定義は、discussionの1形態で、2集団の間での課題を解決し、不同意を解消するためのフォーマルな討議というものですが、哲学者の鷲田清一氏の言を借りて哲学的な定義をすれば、「対話」は、ロゴス(言語と論理)を分かち合って学ぶプロセスであり、説得ではなく、自発的に意見を変えることを良しとし、それを負けとはせず、むしろ、新しい意見が出てくる可能性の追求と捉えられると言えるでしょう。

日本における「議論」は、一見、同意か不同意かを前提としたargumentを中心とした一群よりも、哲学的解釈の「対話」により近いように思えるかもしれません。しかし、argumentを中心とした一群も、dialogueも、個々が明確な意見を持ち、相手に異なる意見をぶつけ合うものであり、場(の空気)で徐々に参加者を縛り、「思いの共有化」と称して全員一致が望ましい状態であるように方向づける日本の「議論」とは異なると感じられるのではないでしょうか。

■日本の会議がつまらない理由とは

しばしば日本人は論理的でないといわれますが、正確には、論理性がないのではなく、日本人の論理の組み立て方に特色があるということです。さらに問題は、その特色を意識することなく、それが万国共通であると考えることです。不可逆なグローバル化が加速化し、多様性を前提とし、そこから共通を模索する中で、日本人は自ら日本人の「議論」の特色を認識し、それを相対化する必要があるのです。

日本の社会での言語行為は、対話(ダイアローグ)の集積ではなく、独白(モノローグ)の連鎖の展開という特徴があります。また、日本の組織の会議とは、相手の発言を受けて行われるはずの次の発言が、明確な相手を意識したものではなく、独白のように発せられる参加者一人ひとりの揺れ動く思いや心情が、次々と置かれていく「場」と言えるのではないでしょうか。

この独白の連鎖は、思いや心情の分布状態を示しますが、単なるマッピングであり、相違を前提にした「議論」ではなく、意見の対立が顕在化することはありません。この構造の中で、各自は自分の位置を測り、自分の思いや心情を微修正し、それを何回か繰り返す過程で、参加者各自の思いや心情が「自ず」と「ある」しかるべき点に収斂(しゅうれん)する、すなわち、「私」が「われわれ」になるブラックボックスのようなプロセスがあると言うことができます。それを、日本人は「衆議一決」と言って尊んできたわけです。

■「全会一致」は、世界では避けるべきこと

ここで問うべきは、全会一致という決定が、「意見の対立がある状態が自然な状態である」という認識を前提に置く欧米で理解され、受け入れられるかという問題です。

全会一致(衆議一決)は、欧米社会では、社会心理学でいう斉一性(uniformity)の原理(ある特定の集団が集団内において、反論や異論などの存在を容認せずに、ある特定の方向に集団の意向が収斂していく状況を示す。斉一性の原理は、少数意見の存在を認める多数決の原則で意思決定を行う場には起こらず、全会一致を志向する意思決定の過程において発生する)と認識され、ファシズムに通じるものとして、民主主義社会において回避すべきものと認識されています。

筆者の知る限り、英語で「unanimous(ly)(全会一致)」という表現を使うのは、国連などの国際機関で一国の他国への侵略などへの非難決議や核軍縮など反論の余地のない決議などに見られるように、相当強い例外的な表現です。

全会一致(衆議一決)という斉一性の原理が働く状況を、欧米的な視点で捉えると、必ず「自薦の用心棒〈self-appointed mind-guards〉」が現れます。「自薦の用心棒」とは、社会心理学の集団思考の研究領域において指摘される事象の1つで、社会の影響や、集団心理の結果として成立した規範(自明なマジョリティ)を擁護しようとする行為者、または存在を意味します。

反論や異論を封殺するために、マイノリティである発言者を貶めるネガティブ・キャンペーン等を行う個人に還元できる「自薦の用心棒」という明確な対象が存在するのです。

■日本人は“同僚からの圧力”にくみしやすい

しかし、日本社会における、「私」が「われわれ」に転じる斉一性の原理の起動のメカニズムは、「自薦の用心棒」が個人に還元できる欧米とは異なり、各自の意見や考えが、「自ず」と「ある」しかるべき点に収斂されていく「力」が働き、「私」は、気がつけば、「われわれ」へと変容するのです。この「力」の起点は、欧米における「自薦の用心棒」のように特定の個人ではありません。

それでは、この「力」とは何でしょうか。多くの日本人は、流れにあらがえないその「場」の雰囲気(最近は「空気」)であると答えるでしょう。この「場」と「空気」とは、突き詰めると何でしょうか。少し難しいですが、それは、「間主観性」に対する個人の捉え方の問題に行きつくと言えそうです。ご存じの読者もいると思いますが、「間主観性」は、現象学で高名な哲学者であるフッサールが提示した概念で、複数の個の主観の共同化、相互主体性ともいわれます。

主体としての個の主観の超越性が勝る欧米では、この「間主観性」に無条件に従うことを潔しとしないので、その存在を「peer pressure〈同僚からの圧力〉」などと表現しますが、日本人は、この「間主観性」が「根源的な自発性」、つまり、一人称性を持つかのように認識し、これに従うことに抵抗がありません。

むしろ「思いの共有化」と表現し、良いものと理解して、あたかも自分と同列の主体であるかのように認める傾向が強いのです。これが「私」から「われわれ」への不可逆な転換点であり、これに慣れ親しんでいる日本人は、「われわれ」を多用し、英語でも、「We」を使うことが多いのではないでしょうか。

■説得力よりも「納得」しないと合意しない

小笠原泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ 時代に先駆け多様なキャリアから学んだ「体験的サバイバル戦略」』(プレジデント社)

もう一つ、日本人の「議論」と欧米人の「議論」の違いを紹介したいと思います。日本人の間でよく耳にする「理屈はわかったが(説得されたが)、納得しかねる」という決まり文句があります。論理的な整合性のある正しさ(道理にかなっている)を示す「正当性」だけでなく、それが「正しい」手続きによって形成されたのかという「正統性」の要素を満たさないと、「説得」はできても「納得」には至らないという意味でしょう。

筆者の知る限り、欧米の「議論」では、「説得」されたならば、つまり、相手の意見の論理的な「正当性」を認めれば、おおむね「納得」する、つまり、「議論」の経緯の「正統性」は問題にはしませんが、日本の場合は、むしろ「納得」、すなわち「正統性」の方が、「説得」、すなわち「正当性」に勝るのではないでしょうか。故に、日本では、「説得」されても、最後に「納得」しないと「ちゃぶ台返し」をするので、欧米的な「議論」を通して結論を導き出すことが難しく、本質的な合意に至らないのではないかと思います。

話をシンプルにするために、多少デフォルメしていますが、グローバル化する社会で生き抜くことを考える必要のある若い世代は、日本の「議論」と欧米の「議論」の違いを十分に意識する必要があります。多様性を前提に置くグローバル化する社会で必要とされる「議論」が説得重視の「議論」であることは言うまでもありません。

■説得重視の論法を身につけるには

それを身につけるためには、

・社会の多様性を認め、
・相手との意見の相違を前提に、
・自らの明確な意見を持ち、
・相手を特定して、自分の意見を述べ、
・agree to disagree(不同意に同意)を許容し、つまり相手との対立点を認識し、
・対話を通して、新しい、より良い意見を得られる可能性を追求し、
・その過程で、無理に相手の同意、すなわち全会一致は求めようとしない

ことを肝に銘じる必要があります。

その第一歩として重要なことは、「正解」を述べることではなく、人に伝えるべき「自分の意見」を持つことです。グローバル化する社会で必要とされる説得重視の「議論」において相手が聞きたいのは、あなたの「意見」であって、「正解」ではないことを理解してください。まずは、「われわれ」という言葉を意識して使わないようにすることを試みてほしいと思います。

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小笠原 泰(おがさわら・やすし)
明治大学国際日本学部教授・トゥールーズ第1大学客員教授
1957年生まれ。東京大学卒、シカゴ大学国際政治経済学・経営学修士。McKinsey&Co.、Volkswagen本社、Cargill本社、同オランダ、同イギリス法人勤務を経てNTTデータ研究所へ。同社パートナーを経て2009年4月より現職。主著に『CNC ネットワーク革命』『日本的改革の探求』『日本型イノベーションのすすめ』『なんとなく日本人』『2050 老人大国の現実』など。

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(明治大学国際日本学部教授・トゥールーズ第1大学客員教授 小笠原 泰 写真=iStock.com)