'15年4月に行われた還暦ライブでは、熱唱して会場を沸かせた

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「自宅に帰ってきた西城さんの亡骸は、死んでしまったとは思えないほど、すごくきれいな顔をしていたみたいですよ。病気で亡くなったりすると、やせ細ってしまったりもしますが、突然でしたからね。苦しむこともなかったそうです」(芸能プロ関係者)

【写真10枚以上】若かりし西城秀樹さん

 5月16日の午後11時53分、西城秀樹さんが亡くなった。先月25日に自宅で家族と過ごしているときに、突然意識を失い、横浜市内の病院に緊急搬送されていた。

 彼は倒れる直前まで元気な姿を見せていたという。3年前から通っていた、都内にあるリハビリジム『フリーウォーキングメディカル』総院長の大明龍八氏は、そのときのことを振り返る。

「最後にうちに来たのは4月25日ですね。5月2日まで予約が入っていたのに来ないからどうしたんだろうって思っていたのですが……」

 西城さんは'72年3月に『恋する季節』でデビュー。

 '74年の『傷だらけのローラ』や'79年の『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』が大ヒット。俳優としての活躍も記憶に残る。

「'74年に放送された『寺内貫太郎一家』(TBS系)シリーズで演じた主人公の長男役が大人気に。同年に公開された映画『愛と誠』では主演を務めました。また、'73年から

 '85年まで放送された『バーモントカレー』のCMでは、“ヒデキ、感激!!”のフレーズが大流行しましたね」(スポーツ紙記者)

 歌謡曲の枠にとらわれず精力的に音楽活動を続けたが、'03年と'11年に脳梗塞を発症。万全の状態ではなかったが、ファンの前に立ち続けた。

「'15年には還暦ライブ、'15 〜'17年は、同窓会コンサートなどで年間に70〜80か所を回っていました。今年は少しスローダウンして、体調を整えようと思っていたようです」(前出・芸能プロ関係者)

 残念ながら、今年の4月14日に栃木県足利市で開かれた同窓会コンサートが最後のステージとなってしまった。

近隣住民らが見守っていたプライベート

 歌い続けることが、彼のいちばんの願いだった。自宅近くでは、元気に散歩する姿が見られていた。

「10年前くらいにご家族で引っ越してきました。当時は常に杖をついていましたが、5年前くらいには状態がよくなったのか、杖なしで外を歩いていましたよ。公園で会うと、気さくに“こんにちは!”と挨拶してくれましたね」(近隣住民)

 車で10分ほどの場所にあるラーメン店『K』にもよく足を運んでいたという。

「周囲のお客さんが気づいて話しかけると気軽に握手してあげていて、フレンドリーな方だなと思いました。オーナーは訃報を聞いてとても落ち込んでいて……。

 西城さんが亡くなった日の営業前には、ラーメンを作って、彼がいつも座っていた席のテーブルに置いてお供えしたんですよ」(『K』の店員)

 近隣のジーンズショップ『R』にも通っていた。

「自然で気取ったところがない人だったね。ジーパン、Tシャツ、シャツ、ジャケットいろいろ買っていただいて。おかげでポイントカードが何枚も貯まっていましたよ(笑)」(『R』の店長)

 意外にもサッカー好きな一面があり、川崎フロンターレを応援していた。

「ホームスタジアムの等々力競技場で『YOUNG MAN』を歌ってくれました。今年の夏もまたスタジアムが一体になる“YMCA”が聴けると思っていたのですが……」(フロンターレのファン)

 昨年10月17日に『中野サンプラザ』で行われたライブでは、体調が優れなかった。

「ライブ中はほとんど座っていました。それでもファンから“ヒデキがんばれ〜!”と声がかかると、片手を挙げて“オー!!”とうめき声のような力強い声を聞かせてくれました」(ライブに来たファン)

 終わったあとの楽屋でもずっとイスに座ったままだったという。

「つらそうでしたが、何十人もの楽屋見舞いに嫌な顔も見せず写真撮影に応じていました。いつも奥さんがつきっきりでサポートしていましたよ」(レコード会社関係者)

 西城さんは'01年6月に18歳下の一般女性と結婚。'03年に脳梗塞を起こした際には、妻の存在が支えになった。

「長女が生まれたばかりで、奥さまのお腹の中には7か月の赤ちゃんもいました。奥さまは身重ながら、毎日病院に通ったそうです」(前出・芸能プロ関係者)

 2度目の脳梗塞で、身体に障害が出てしまった。唇や舌がしびれ、言葉がうまく出てこず、右側の手足も自由に動かせなくなった。それでも、完全復活を信じて、懸命にリハビリに取り組んでいた。

「西城さんが、初めて来たのは3年前ですね。当時は、めまいがすごくて5秒間、自分の足で立てず、右半身のしびれもありました」(前出・大明氏、以下同)

 1か月ほどでめまいがなくなり、しびれも3か月でおさまってきたという。

「それからリハビリが本格的に始まりました。“自分ひとりでトイレに行きたい、自分ひとりで風呂に入りたい、そしてちゃんと歌いたい”と。子どものために歌をうたいたいと言っていました」

 万全の体調ではなかったが、舞台に立ち続けた。それは、彼を応援するファンのため、そしてなにより家族のためだったのかもしれない。

 強い思いを抱いていたとはいえ、ときにはリハビリをつらく感じることもあったよう。

「トレーニングするときはすごくまじめで真剣。黙々と頑張るタイプだなぁって。ただ、つらいときもあって、“痛い!”、“もう帰ろう”などと声を上げていました。でも、途中でやめることはありませんでしたね」

 リハビリを支えたのは、家族や仲間たちだった。

「奥さんと子どもが来ると、“嫌だ!”とか“もう帰ろう”とか言わなくなるんですよ。子どもがいる前だから、そこで“痛い”とかは言いたくないと話していました。みんな一緒に同じトレーニングをやって、家族全員でリハビリに臨んでいましたね」

 '11年の再入院では、苦しいリハビリに心がくじけそうになることも。しかし、退院して自宅療養が始まると、心境の変化があった。翌年11月には、本誌のインタビューでそのことを語っている。

《病気のせいで仕事を減らしてリハビリに励んでいると、今まではそんな自分がもどかしかった。でも成長期の子どもたちと過ごす貴重な時間を神様から与えられた、と考えるようになったら、家庭での生活が、がぜん楽しくなってきた》

 一方で、'14年4月の『週刊女性』のインタビューでは、死に対する考えを語っている。

《今も、死に対する恐怖心はやっぱりあります。いつまた再発するか分からないですから。でも、不安ばかり抱えて生きていても価値がない人生になってしまう。

 そこで生み出した言葉が『楽 我 生(=らくがき)』。我はなるべく小さく、楽しく生きるという意味を込めました。これを意識するようになって、生き甲斐も素直に感じられるようになりました》

 西城さんの生き方は、最後まであの歌唱スタイルのようなエネルギーに満ちていた。