デタラメに絵の具をまき散らしたような抽象画を生み出し「現代アートの頂点」と評された画家ジャクソン・ポロックの生涯とは?
キャンバス一杯に塗料がまき散らされ、一見すると何が描いてあるのかわからないような絵画を美術館や教科書で見たことがある人は多いでしょう。そんなアクション・ペインティングという絵画表現を用いた、20世紀アメリカを代表する芸術家ジャクソン・ポロックに焦点を当てたムービーが、YouTubeで公開されています。
The Case for Jackson Pollock | The Art Assignment | PBS Digital Studios
現在、ポロックの絵画は5000万ドル(約55億円)を超える高値で取引されるものもあります。
ポロックは1912年にアメリカのワイオミング州で生まれました。
ロサンゼルスの高校に通い、1930年に兄のチャールズと共に芸術家を志してニューヨークで生活を始めます。
ポロックたちはアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、トーマス・ハート ベントンの下で絵画を学ぶことになります。
ベントンはヨーロッパのキュビズムやシンクロミズムに影響を受けた画家でしたが……
ポロックはこれを「偽物だ」として気に入らなかった様子。
代わりにポロックは、メキシコの画家ホセ・クレメンテ・オロスコやダビッド・アルファロ・シケイロスの絵画を美術館などで見ていたようです。
1936年、シケイロスが開いたワークショップにポロックは参加します。
そこでポロックは、自動車のラッカーなどこれまでの芸術にはなかった新しい塗料をエアブラシで吹き付けたり、対象物に投げつけるかのような斬新なペインティングの技法に触れました。このペインティング技法では自分の思ったとおりに塗料を重ねられないため、偶然の作用をコントロールすることも必要です。
ポロックはこれらの技法に影響され、いくつかの作品を仕上げます。
少年時代、ネイティブ・アメリカンのアートに興味を持っていたポロックは、1941年にニューヨーク近代美術館で開催されたネイティブ・アメリカンアート展にたびたび足を運びました。そこでナバホ族がアートを作る現場を目にします。
ナバホ族の絵画とは、色のついた砂を地面に落とすというものでした。
1940年代初頭、ポロックは神話のイメージやユング心理学を基にした絵画を製作していました。
ポロックは絵画に発露する無意識に引きつけられていました。同時に、無意識の心理を絵画に反映させる方法についても、非常に興味を持っていたとのこと。
ポロックのキャンバスに塗料を滴下する技法は、ポロックだけがたどり着けた境地というわけではありません。1944年には、アメリカの画家アーシル・ゴーキーが滴下による絵画を発表し、同時期にハンス・ホフマンも同様の絵画を発表しています。
ポロックは1942年、ペギー・グッテンハイムギャラリーで開催された「今世紀のアート」展に絵画を出品し、ピエト・モンドリアンに「アメリカに来てから見た中で最も面白い絵画だ」と評価されます。
ポロック最初の個展は大きな注目を集め、古いもの・部族・原始的な力などを描き出した絵画は衆目の目にとまりました。
学芸員のジェームズ・スウィーニーはポロックの才能を火山にたとえ、「炎と同じく予想不可能、規律はなく、内なる衝動を描ける人物だ」と評しました。
美術収集家のソロモン・R・グッゲンハイムもポロックの才能に目を付け、巨大な壁画を描かせています。多方面から激賞されたポロックは、アメリカを代表する芸術家としての地位を固めます。
1942年、ポロックは画家のリー・クラズナーと出会い、1945年に結婚。ロング・アイランドに2人のアトリエを構えました。
ポロックはトーテム的で神話に影響を受けた絵画の製作を続けますが、塗料の塗り重ねは非常に厚いものになっており、一番下に描かれた元の絵がわからなくなるほどに変化します。
ポロックの絵画には塗料として油絵の具・エナメル塗料・アルミラジエーター用塗料などさまざまな種類が使われ、スティックやパレットナイフを使ってキャンバスに塗料を垂らし、ときには砂や爪、ひもなどが絵画に埋め込まれていることもあるそうです。
次第に絵画から神話等の物語が失われ、ポロックは絵画のタイトルに「Number7」「Number11」といった数字を振るようになります。
しかし、ポロックはただデタラメに塗料をキャンバスにぶちまけるのではなく、非常に繊細な作業でその飛び散り具合や重ね合わせる順序、色の配列や塗料の流れを制御していたとのこと。
ポロックはどのような動きがどのように塗料を飛び散らせるのか、使う塗料がキャンバス上にどのような効果を生み出すのかについて、ハッキリと自覚していました。
ある程度絵を進めたらポロックは絵を描くのをやめ、今後どのように塗料を塗り重ねていくのか、それともこれで完成なのかを慎重に考えていたそうです。
ポロックの絵画は多くの批判も受けました。TIME MAGAZINEからは「子どもが描いたゲティスバーグの戦いの地図のようだ」と酷評され、NEW WORLD TELEGRAMは「もじゃもじゃの髪」と切り捨てました。当時から現在に至るまで、ポロックの絵画に全く価値を見い出せない人々は少なくありません。
しかし、美術評論家のクレメント・グリーンバーグが「ポロックは現代アートの頂点だ」と評価するなど、一部の現代美術に影響力の強い人々がポロックを賞賛しました。
ポロックの絵画は次第に大きくなっていき、床一面あるいは壁一面のキャンバスに描くようになります。
映画監督のハンス・ネイマスはポロックを取材したドキュメンタリーを制作し、屋外での絵画製作の過程やガラスをキャンバスに絵画を製作するポロックを下から見上げた映像などを残しています。
ポロックの絵画製作手法を表す「アクション・ペインティング」という言葉を作ったのは、美術評論家のハロルド・ローゼンバーグです。当時の芸術家たちはキャンバスに抽象的な感情を表現することを目指し、さまざまな手法を考え出していました。
第二次世界大戦後、それまでの静物画などでは湧き起こる感情を表現しきれないという思いが広がっていたのです。
ポロックは次第に具象的な表現に回帰する様子も見られ、1950年代の作品には抽象表現と具象表現の間で揺れ動いているのがわかります。
しかし、晩年のポロックは散発的に絵画を残しただけで、精力的に活動することはできませんでした。生涯を通して苦しんだアルコール依存症と精神病により通院を繰り返していたポロックは1956年、自動車事故で愛人とその友人を巻き添えにして44歳で死去。
ポロックの絵画は死後も愛され続け、第二次世界大戦後のアメリカでヨーロッパの追従ではない、新たなアートを切り開いたと評されています。ポロックはアメリカが抱えた恐怖と自由の象徴だとする声もあります。
ポロックがベントンに反発したのと同じく、多くの芸術家たちがポロックに反対していますが、ポロックがアメリカの歴史における一つのアイコンになったのは確かです。
ポロック以前の時代には、画家たちがアトリエの中でどのような作業をしているのか、一般の人々は知る余地がありませんでした。完成した作品だけを見て評価していたのです。
ところが、ポロックはその創作風景を広く世に公開したこともあって、一体どのように完成した絵が描かれたのか、どのようにキャンバスを横断して塗料を滴下していったのかを知ることができます。
ポロックは自らの絵画を「エネルギーと動きを目で見えるように記録し、空間に閉じ込めた」と述べています。
私たちがポロックの絵画を見るとき、もちろん傍らにポロックがいるわけでもないのに、ポロックがどのようにキャンバスの上を動き回ったのかを想像せずにはいられません。
ポロックの絵画から何を感じ取るのかは全く人それぞれであり、人によっては星空や宇宙、または海、もしくは無限の繰り返しを想像するかもしれません。先入観を持たずにポロックの絵画を鑑賞し、その後で自分の中に残ったものが重要なのです。