戦後戦死した日本人がいた!兄が初めて語る「71年目の真相」
「昭和25年10月24日、弟の死後7日目のことでした。私の実家がある山口県周防大島に米軍将校2名と通訳1名、それに海上保安庁の職員2名が突然やってきたんです」
そう話すのは、大阪在住の中谷藤市さん(89)。海上保安庁の機雷掃海船の乗組員だった中谷さんの弟・坂太郎さん(享年21)は昭和25年10月、朝鮮戦争で戦死している。
「私は当時大阪にいたため、対応したのは父でした。通訳を通じて『米軍が上陸するために弟さんが乗った船が北朝鮮沖で機雷掃海作業中、運悪く機雷に触れて沈没。あなたの息子さんは行方不明になりました』と米軍の将校は穏やかで事務的な口調で伝えたそうです」
「弟は“戦後戦死した唯一の日本人”となりました。昨年9月に安保関連法が採決され、改憲の動きが進んでいます。このような悲劇が繰り返されるのではないかと私は危惧しています」
坂太郎さんが戦死したのは、平和憲法が施行されてからわずか3年後。戦争放棄を謳ったはずの日本だが、すでに憲法は「破壊」されていた。
「当時海上保安庁の長官を務めていた大久保武雄さんからうかがった話ですが、米軍から直接海上保安庁に『朝鮮戦争に出動して機雷の掃海をせよ』という命令が下ったそうです」
時の総理だった吉田茂も「あくまでも隠密に」と、これを黙認したという。
「日本は米軍の占領下に置かれていましたから、憲法に違反するおそれがあったとしても、従うしかなかったんでしょう」
中谷さんの弟・坂太郎さんは1929年、瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県)で6人兄弟の三男として生まれた。15歳で地元の海兵団に入団したが、戦地に赴くことなく、ほどなく終戦。海上保安庁が募集していた掃海隊に入隊し、おもに瀬戸内海周辺の機雷の除去にあたっていたのだ。
「当時私は、田舎で兄と漁師をしていましたが、家族11人を食べさせていくのは大変で。坂太郎は家計を支えたいと、掃海隊に入ったんです」
日本の近海には、戦時中に米軍や日本軍が敷設した機雷が約7万発も残っていたため、海上保安庁は、その掃海作業を担っていた。掃海作業は危険をともなうため、給料もよかった。坂太郎さんは毎月3〜4千円(現在の価値で4〜5万円)の仕送りを欠かさなかったという。
状況が一変したのは、朝鮮戦争が始まった1950年6月。アメリカを中心とする国連軍は、北朝鮮が敷設した機雷のせいで、半島北部への上陸が難航していた。そこで、日本に白羽の矢が立った。米軍が日本の海上保安庁に、朝鮮水域での掃海を命じたのだ。
50年10月17日。午後4時20分――。
坂太郎さんらが乗っていた特別掃海艇MS-14は、朝鮮海域で掃海作業をしていた。それを感知した北朝鮮が陸上から攻撃を開始。それに対し掃海船の後方にいた米軍戦艦が応戦。海上は一気に砲弾が飛び交う“戦場”になったという。
「大混乱の中、弟が乗っていた掃海艇は機雷に触れてこっぱみじんになりました。乗組員23名のうち22名は奇跡的に救助されたそうですが、弟だけは遺体すら見つからなかった。彼は料理が好きだったから、生きていれば飲食店でも経営して成功していたでしょうに」
中谷さんは、66年たった今でも無念さを隠せない。
「弟は、まさに集団的自衛権によって、他国の戦争に巻き込まれて戦死したのです」
中谷さんは、無念の思いから、こう警鐘をならす。
「昨年、安保法案の国会審議で集団的自衛権について、後方支援だから大丈夫だと安倍首相は言いました。しかし実際に戦争がはじまったら、自衛隊は弟のように米軍の盾になり、矢面に立たされ命が危険にさらされるでしょう。私たちの孫、ひ孫の世代が、いつか来た道を歩まないように、弟が亡くなった経緯を教訓に、私たちが戦争へ進む動きを食い止めないといけません」