浅井健一は「ビート」、チバユウスケは「南米」2人の歌詞に見る文学性の違い

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2016年1月のTHE YELLOW MONKEY(イエモン)再結成発表に最も胸を熱くしたのは、全盛期だった90年代後半を知っている、現在30代前半〜40代前半くらいのロックファンだっただろう。

1990年代後半といえば、今でも語り草になっている、日本のロックの黄金期である。

イエモンだけでなく、BLANKEY JET CITY(ブランキージェットシティ)とTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)がパンク寄りのロックファンの人気を二分していたし、サイケデリックロックを日本人として再構築したゆらゆら帝国は新鮮だった。ナンバーガールもスーパーカーもいたし、くるりも、グレイプバインもいた。

デビュー時期こそ違うが、それぞれの活動時期は重なっていた。それが90年代後半だったのだ。



当時、中学生だった筆者はこれらのバンドをどれも聴いていたが、特に印象的だったのがブランキージェットシティとミッシェルガンエレファントである。演奏はもちろんどちらもこれ以上なく格好いい。でも、それだけでなく、彼らは歌詞がユニークだった。今になって読み返しても、彼らの楽曲の歌詞、正確に言うならば浅井健一とチバユウスケの歌詞からは「文学」の匂いがただよっていたのだ。

■ブランキーの歌詞にただよう「ビートニック」の香り

ブランキージェットシティの楽曲の大半は、ギター&ボーカルの浅井健一によるものだ。キャリアの初期から、浅井の歌詞には「物語」があり、音楽なしに読んでも映像が浮かぶものが多い。

Baby 砂嵐が そこまでやってきてる
早くゴーグルを着けなよ
あまりに強い風が 吹いたら
2人は ひとたまりもないけど
(「Fringe」より引用/アルバム『SKUNK』収録)

これはブランキーの5thアルバム「SKUNK」に収録されている「Fringe」歌詞だが、自分の内から湧き出たものを歌詞にしているというよりは、物語のワンシーンであったり、その登場人物と思われる人のセリフだったりと、歌詞の世界の外側にいる「物語の作者」の存在が印象付けられる。

つまり、浅井は自分の内面を歌うボーカリストではなく、自作の物語を歌で語り聞かせるボーカリストであると言っていい。

■「ビート・ジェネレーション」の影が見える歌詞

浅井の歌詞のこの傾向は、ブランキージェットシティ解散後の活動にも当てはまるのだが、もう一つ特徴がある。

「カマロ」「ポンティアック」「マールボロ」など、歌詞で描く風景に「アメリカ」があることが多いのだ。そして、それらを背に「車泥棒」や「ローラーを履いた新しいスタイルの不良グループ」や、「勤め先のレストランの金を盗むチャド」など、アウトローや社会の中の敗者の物語が語られる。

小説に通じている人なら、これらのキーワードに思い当たる節があるのではないか。浅井の歌詞からはジャック・ケルアックやチャールズ・ブコウスキーといった「ビート・ジェネレーション」の影が感じられるのである。

■浅井が「物語」なら、チバは「詩」だった

ミッシェルガンエレファントの楽曲の作詞は、ボーカルのチバユウスケが担当していたが、チバの歌詞は活動の時期によってかなり振れ幅がある。



デビュー初期から中期までは、散文調で明確な意味性を排除したものや、パンクロックからの影響が色濃く感じられる、自分の内面を吐き出す歌詞が多かった

うずまいてたから うで入れた
空気ためこんで にじませよう

くたばりかけてた三日月を
他人が見てたから手を振ってやった
(「ランドリー」より引用/シングル『カルチャー』収録)

くさってるから 刺されても痛くない
くさってるから 溶けても感じない
くさってるから くさってるから
くさってるから 誰も追いついてこない
(「キング」より引用/シングル『世界の終わり』収録)

当時のチバの歌詞の雰囲気をよく表していると思えるのがこれらの歌詞だろう。浅井が「物語」なら、チバは純粋な「詩」だった。浅井の立ち位置が自分の作りあげた物語の外側だったとしたら、チバは自分の詩の内側から外の世界に言葉を発していた。

■チバは「浅井化」したのか?

ところが、そのチバの歌詞に、2000年代に入った頃から変化があらわれる。

水牛の角で作られた街で
焼かれた森の運命を知った
赤毛のケリー

針の錆びている欠けたブローチには
月から来た石とだけ書かれていた
(「赤毛のケリー」より引用/アルバム『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』収録)

これは2001年に発表された「ロデオ・タンデム・ビート・スペクター」収録の「赤毛のケリー」の歌詞だが、明らかに前出のものとは違い、「物語」に寄ってきている。ちなみに、チバの歌詞にこの曲でいう「ケリー」のような人名が登場することは前にもあった。

たとえば「ゲット・アップ・ルーシー」がそうだが、特に物語性はなく、「ルーシー」という、おそらくは女性である人物への呼びかけに終始している。

「詩」から「物語」へ。改めてミッシェルのアルバムをデビューから聞き返すとわかるが、この変化はかなり顕著だ。

ただ、筆者個人はこの変化にいい印象を持たなかったし、当時のファンも同じように思った人が多かったのではないか。



ここにあるのは空と
見渡す限りのポップ・コーン
退屈な子供たちは
トウモロコシとファックしてる
16番目のモーテル
(「アンジー・モーテル」より引用/『カサノバ・スネイク』収録)

この歌詞も「物語」的であり、しかも舞台はどう考えても「アメリカ」である。そして2000年代初頭といえばブランキージェットシティの解散直後。ミッシェルの歌詞におけるこの変化を「チバの浅井化」だと勘繰る条件はそろっていたのである。

■「The Birthdayのチバユウスケ」が獲得した新たなオリジナリティ

ただ、この変化によってチバの歌詞は独自性を失ったと言いたいわけではない。というのもミッシェル解散後、ROSSOなどを経て、The Birthdayで活動しているチバの歌詞は、あいかわらず物語らしきものの断片やイメージを語りかけてくるが、そこには浅井の歌詞とはまた違ったオリジナリティが感じられるからだ。

日焼けした白いギターに新しい
一本の木が生えて 緑の葉っぱ達を
ゆさゆさなびかせる トロピカーナドリンク
白目はあいかわらず 黄色いまんまかい?
(「モンキーによろしく」より引用/アルバム『TEARDROP』収録)

青い羽が落ちて トランぺッター楽器を置いた
泥酔して 忘れたマントを
ヤセギスの死神に着せるために
(「I KNOW」より引用/シングル『I KNOW』収録)

この言葉の使い方はアメリカというよりは中南米。そして歌詞の中で起こっている出来事はどこか超現実的であり、魔術的だ。

■2人の歌詞を文学ジャンルに当てはめてみると…

野暮を承知で「文学ジャンル」に当てはめてみよう。浅井がアメリカのアウトローをモチーフにした「ビート文学」なら、中南米を舞台に現実を超えた物語を描くチバは「ラテンアメリカ文学」だ。



ロックと中南米文学的な歌詞の融合、これはこれで唯一無二だろう。The Birthdayの歌詞には、メキシコやラテンアメリカを感じさせるものが他にも多くある。

一貫して歌詞に物語を持ち込み、ビートニック的な世界観を根本に持つ浅井と、変遷の末、新たなオリジナリティを獲得したチバ。

今日から始まったフジロックフェスティバルにも出演し、ともに第一線で活躍しつづけるレジェンド2人は、これからも「ロック黄金期」だった90年代後半を経験し、「最近のバンドは軟弱で…」と不満タラタラのロックファンたちの心を熱くし続けてくれるはずだ。(新刊JP編集部 山田洋介)

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