広陵が独走気味になってきたが、広島新庄と如水館などが追う(広島県)
かつて広島県の高校野球は広島商と広陵の対決構図が大きくクローズアップされ、その間隙を縫うかのように尾道商なども出場すれば上位に進出した。とはいえ、広島県の高校野球というと広島商と広陵だった。この両雄を語らずしてはいられない。戦前から継続されているライバル関係ともいえる存在である。
広島商と広陵の2強時代有原 航平(広陵)
広島商の象徴的な試合は1973(昭和48)年春、作新学院・江川 卓投手を足で攻略した試合だろう。徹底して高めの速球は見送り、四球で塁に出れば何度も何度も盗塁を仕掛けてくる。高校生としてはとても手が出ないとさえ言われた江川から2安打ながら、最後は重盗で勝利をもぎ取った。
結局、この大会は準優勝にとどまるが、その夏は決勝で静岡にサヨナラスクイズで勝ち5度目の優勝を果たしている。その後、88年夏にも全国制覇を果たしている。広商野球というのは、打てなくても何とかしていくというしたたかさが伝統として今も生きている。一つの作戦を徹底してやりぬく執念のような強さを内在している。
これに対して、実績としては広陵がやや遅れをとっていた。ところが、ここへ来て広島商が商業校の悲哀とでも言おうか、選手獲得も含めて苦戦を続けているのに対して、広陵は91年春、03年春に優勝、07年夏に準優勝を果たして、全体でも優勝3回、準優勝5回という記録がある。
中井 哲之監督が就任2年目にして見事に古豪を復活させた91年以来、県内の地位も逆転していった。そして、03年春に好投手西村 健太朗を擁して春だけで3度目の全国優勝を果した時には、県内ではすっかり独走態勢になっていた。
時代は新しくはなっても広島の早慶戦といわれるこのライバル校の対決図式は広島野球の根底として続いていってほしいところではあるが、現実には広島商にとって代わる勢力が浮上してきている。
[page_break:広陵を追いかける新たな勢力]広陵を追いかける新たな勢力持田 大和(如水館)
その代表格としてこのところ注目されているのが如水館だ。広島商でも実績のある迫田 穆成監督が指導してチーム力が上がってきた。三原工と緑ヶ丘女子商が統合されて94年に創立されたのだが、97年から3年連続で甲子園に出場している。これで一気に、広島県に如水館ありということも知らしめた。時をほぼ同じくして台頭してきたのが高陽東だった。高陽東は83年に広島市高陽ニュータウンに創立された県立校だが、広島工でも実績を挙げた小川 成海監督が赴任してきて一気に躍進した。ことに、96年は春はベスト4、夏もベスト8で一気に甲子園でその存在を示した。
もちろん、広島の野球はそれだけではない。無名の廿日市出身の山本 浩二がやがて広島カープの看板スターとなってプロ球界でも一時代を形成したように、他の学校も歴史を作った。筆頭格は公立では学校の歴史としても広島商に負けないものを持つ尾道商だろう。尾道といえば大林 宣彦の映画の舞台としてもよく使われている。それらの映画でものんびりとした街という印象があるが、尾道商は64年、68年と春2度の準優勝がある。小川 邦和(早大→日本鋼管→読売)、山内 泰幸(日体大→広島)、舩木 聖士(NKK→阪神)などプロ野球選手も多く出ている。
私立では76年春に黒田 真二投手(鋼管福山→リッカー→ヤクルト)で盤石の強さを示して優勝した崇徳が印象深い。バレーボールの名門としても有名で、世界一のセッターといわれた猫田 勝敏(専売広島。故人)や西本 哲雄(専売広島)らのミュンヘン五輪金メダリストに元全日本監督の寺廻 太(明大→NEC)らをはじめ、日本のバレーボール界には多大な人材を送り出している。
また、74年に甲子園に登場した盈進や、90年夏に初出場するといきなりベスト4へ進出した山陽、旧松本商の瀬戸内、近大福山なども毎年チームを整備してきていた。そんなところへ新たに躍進してきたのが広島新庄だ。14年春に初出場、桐生第一と延長15回引き分け再試合を演じるなど、好試合で印象づけた。さらに15年夏にも出場して、今や広陵を追いかける一番手といっていい存在となった。
公立では広島工や西条農、宮島工など、かつて甲子園出場を果たしている実業系も踏ん張っている。
(文:手束 仁)
注目記事・【6月特集】快進撃の作り方