ゲームメーカー・任天堂が出来るまで〜花札からファミコンまで(第1回)

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創業は130年近くも過去に遡る、明治時代の半ば。あらゆるゲームメーカーの中でも最も長い歴史があり、「娯楽」に取り組んできた任天堂は、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。そのルーツ(花札)に遡り、「ファミコンを創るまで」への道のりをたどる連載の第一回目です。

任天堂はなぜゲーム産業に深く関わるようになったのか。この問いは、ゲーム市場でしのぎを削ってきたソニーやマイクロソフトと比較してみると、同社のユニークさを際立たせることになります。

ソ ニーがゲーム事業に乗り出したのは、エレクトロニクス開発のノウハウがあり、主に「ハード」が作れたから。マイクロソフトはMS-DOSやWindows といったOS、つまりソフトを供給してきた延長にゲームがあります。これら覇権を競い合うライバル2社は「ハード」や「ソフト」を足がかりに、既にそこに あったゲーム市場へと参入した。両社ともコンピューターや、その普及した形であるパソコンの「技術」を通じて現在の位置を築いています。

任天堂は、もともとハード・ソフトどちらの「技術」も持ち合わせていない存在でした。トップ三強の中でこの会社だけが、自前の「技術」もないのにゲーム産業に飛び込み、いまだにトップの一角に位置しているわけです。

任天堂とゲームの関係は、エレクトロニクスやコンピューターを構成する「技術」が出現する以前からあった要素が媒介しています。それは「娯楽」です。

任天堂は花札を作っていた(現在も作っています)ことが知られていますが、ただ過ぎ去った昔の話ではなく、その核にある「娯楽」を通じて現在のあり方と繋 がっているのではないか。ハイエンドの技術に関して言えば、任天堂にはそれを専業としているソニーやマイクロソフトに敵いませんが、逆に言えば他の産業や 科学の進歩を待つ必要がある「技術」がなかった頃から、「娯楽」を仕事にできたわけです。

任天堂はどのように「娯楽」と関わり、今まで歩んできた道がどうやって現在とつながっているのか。130年近くの長きにわたる歴史をたどり、同社のゲームハード・ソフトや経営をより深くウォッチする一助になればと思います。

創業者・山内房治郎氏は花札アーティスト


任天堂の創業は1889年、京都は平安神宮にほど近い「京都市下京区正面通り大橋西入る」の地にて。創業者の山内房次郎氏が、ここにあった空き家を買い取って「任天堂骨牌(カルタ)」を設立し、花札の製造・販売を始めたことが原点です。



花札は歴史ある遊戯ですが、それは弾圧の歴史でもありました。原型であるカルタ(カードゲーム)が日本に上陸したのは安土桃山時代、600年以上も過去のこ と。武士の間で大流行したのは、熱中しやすい賭博だったからです。戦場で勇敢に戦ったのはバクチの負けを取り返すため、ヤのつく自由業も身を持ち崩した侍 がルーツという説もあります。

そのため、江戸時代にはカルタはご禁制の品になり、花札はその抜け道として発明されたもの。数字を消し、和歌の題材をモチーフにして教育用を装うとしたのですが、やはり禁止。江戸時代が終わって明治の世になっても、表向きの禁制は解けませんでした。

任天堂カルタが創立されたのは、1886年に花札が販売解禁されたわずか3年後。ミツマタの樹皮を叩いてほぐして粘土と混ぜた紙を作り、花弁などで作った絵の具で塗り...といった伝統の技を振るった山内房次郎氏は、デザイナーでもありエンジニアでもあったわけです。

「大 統領」の印(一度も大統領になってない初代ナポレオンの絵ですが)を押した彼の花札は関西の賭博場で広く使われ、大人気となりました。任天堂の社名の由来 となった「運を天に任せる」も、博奕打ちの座右の銘ということで深い縁を伺わせます。プロの博奕打ちは勝負のたびに新品を下ろすため、花札の売上はどんど ん伸びていきました。

プロダクトデザインと「流通」の重視


さらに1907年、日本で初めてトランプの製造を開始。その5年前、財政難から骨牌税が導入されて同業者が倒産していくなか、当時は輸入品しかなかったトランプにいち早く乗り出しました。

時 勢を読んだフットワークの軽さに留まらない山内房次郎氏の非凡は、「流通」に目をつけたことです。トランプ・花札のケースがタバコの箱とほぼ同サイズだっ たことから、全国で流通網を持っていた国営企業「日本専売公社」に話を持ちかけ、タバコ流通に花札やトランプを乗せることに成功。行商から一代でのし上 がった「煙草王」村井吉兵衛氏と知己があったおかげもあります。

大統領印を押したトランプ・花札は関西の地方区から全国の市場へと進出し、任天堂カルタも日本一のカードゲーム会社に成長を遂げました。同社は「遊戯」と深く結びついたわけです。そしてすでに、後に任天堂の生命線とされる特徴の片鱗が見出されます。 すなわち「プロダクトデザイン意識の高さ」と「流通網の重視」という2点です。

まず関西ローカルで同社の花札が人気を博したのは「美しかったから」であり、プログラマーがドットを打つのが当たり前だった頃に工業デザイナー志望の宮本茂氏がマリオを生み出したことと通じてます。

また、全国で売るためには流通に乗せなければならない。その基本が、ファミコンソフトを日本中に流通させた一次問屋の親睦団体・初心会に受け継がれた感もあります。

これら2つは、本社のある京都の風土とも無縁ではないかもしれません。かつて戦国武将がめざすべきゴールであり、華やかな宮廷文化の発信地でもあったかの地は、「地方にいて世界を志向する任天堂」のあり方に影響を与えていそうです。

ということで今回はここまで。次回、いよいよ「あの人」が登場です。