既得権を打ち破れ! 大阪革命「橋下徹の3000日」

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■デタラメな「現実」を変えるため、政治の世界へ飛び込んだ

大阪府知事に就任した2008年2月から、大阪市長を任期満了で辞めた15年12月までの約8年間、僕は政治家として地元・大阪のために全力疾走してきました。

別に昔から政治家になりたいと思っていたわけではありません。府知事選に出馬するまでは、弁護士業務のほかにテレビ出演や講演会活動、執筆活動をこなし、多忙だけれど充実した生活を送っていました。実は僕個人の幸せだけを考えたら、選挙になんか出ないで、弁護士兼コメンテーターのまま、世の矛盾や不公平を糾弾していればよかったんです。

でも、僕はそんな人生に我慢ができなかった。

というのは、関西ローカルの夕方の報道番組に出ていたころ、番組は大阪府庁や大阪市役所の税金の使い方がデタラメだということを、何度も何度も取り上げたんです。僕もコメンテーターの一人として、誰が聞いても真っ当だと思うような厳しい意見を繰り返し行政当局に突き付けました。視聴率も高かった。

だけど、それだけでは府や市の現実はまったく動かなかった。相変わらず特定の人たちが、僕たちの払った税金で甘い汁を吸っている。本当に何も変わらないんですよ。

「いうだけじゃダメなんだ!」

身に染みてそう感じました。だったら、いうだけじゃなく自分でやるしかない。政治家になろうと決めたのは、そんな思いが心の奥底から湧き上がってきたからです。

■府知事就任! 既得権と戦うには、議会に仲間が必要だった

目標は大阪の未来のために、まずは一番大事な教育分野へ公的資源を投下すること。そのためには怪しい既得権益者から補助金を取り上げなくてはなりません。つまり大胆な改革が必要です。

何かを変えるには既存政党の抵抗を受けるのは明らかですし、それが大胆な改革であればあるほど水面下の調整で済ませるなど絶対に無理。

ただ、理は僕たちの方にあるはずです。水面下の調整はできなくても、正面切って論争を挑んだら勝てるだろう。そしてその論争の過程を有権者に見てもらえれば、多くの有権者は必ずこちらに賛同してくれるだろう。そういう判断から、僕はあえて調整や政治闘争のプロセスをすべてオープンな議会の場で行うことにしたんです。

となると、既存政党には頼れません。それで彼らの支援を受けなくても当選できる力、議会でも多数を握れる力を持とうと決めました。これが府知事時代に「大阪維新の会」を設立した背景です。大阪の改革を進めるという大きな目標のために、政党という手段を使ったわけです。首長が政党を作るなんて、これまで誰も考えたことがなかったし、やったことがない。それどころか、それは首長と議会の関係をおかしくすると散々批判も受けました。しかし民主主義のルールの範囲内ですから、大胆な改革を進めるという目標を達成するために僕はこの方法を採ったんです。

■原理原則を確立していたから、どんな質問にも答えられた

僕は政治家として、議会だけではなく、メディアとのコミュニケーションにも力を入れました。定例の記者会見に加えて、立ったままで記者の質問に答える朝夕の「ぶら下がり」取材にも積極的に応じました。ここまで真摯にメディアと向き合う政治家は珍しいとさえいわれましたよ。

ぶら下がりのときはもちろん、定例会見でも、役人がつくった想定問答集のたぐいは一切なし。ただし、準備をしていないわけではありません。本質的なところまで掘り下げたうえで、理論構築をし、自分の原理原則を確立するという作業を常に繰り返してきました。

原理原則を見極めていれば、どんな質問に対してもペーパー(想定問答集)なしで答えられます。話が膨らみすぎて、記者から言葉尻をつかまえられるという苦い経験もたくさんしましたが、本質のところで間違ったことは一度もありません。

会見では、自分が答えられるところは自分で答えますが、知らないことは「知らない」という。ときには事実関係を間違えることもあるわけです。その場合は、翌日すぐに訂正する。

僕からすれば当然のことですが、役所の世界ではそれはたいへん異例のことでした。

「えっ? 知事が間違ったことをいうのか! 後からの訂正でいいのか!」

あとから聞くと、大阪府庁にはこんな驚きが広がったといいます。それだけ「官僚の無謬神話(優秀な官僚・行政組織は間違いを犯さないものだという思い込み)」に毒されていたということで、役所の人たちがかわいそうに思えました。もっとも、大阪府庁や大阪市役所はその世界からもう脱却していますけどね。

※本記事は、PRESIDENT 2016年4.18号掲載記事のダイジェストです。

(橋下徹 構成=面澤淳市 撮影=原 貴彦)