日本でフォークソングというと、“ギター1本で歌うもので、学生運動が盛んな頃に流行った歌”というイメージですが、実は本来「Folk Music」という英語は民謡・民族音楽という意味で、1962年にアメリカでカントリーから派生した新しい音楽が日本で紹介されたときに「フォークソング」と呼ばれました。当時来日したバンドの影響もあって、日本で最初に流行ったのは森山良子やマイク眞木によるカレッジ・フォーク。その後、時代の移り変わりとともにさまざまに変化していった「フォークソング」の歴史と魅力を、TOKYO FMの番組の中で専門家の方々に教えてもらいました。
(TOKYO FM「ピートのふしぎなガレージ」3月26日放送より)


あなたの思い出に残る「フォークソング」は何ですか?



◆「フォークソングと言えば《寺》です」
〜コラムニスト 泉麻人さん


日本でフォークソングが一番勢いを持っていた70年代の初頭、(東京の)中央線の沿線に住むのがフォークの人たちのお約束でした。一説には高円寺に「ムービン」というロック喫茶があって、そこが新しい音楽をやる人たちの根城になっていたからとも言われています。吉田拓郎さんも高円寺に住んで『高円寺』というご当地ソングを歌っていましたね。そこから中央線で「寺」が付くところが渋いと言われ、高円寺、吉祥寺、国分寺に人が集まったんです。

日本のフォークはどこか叙情性が求められました。高度成長を進めてきた体制側と逆行するかのように、古き良き日本を見直そうという雰囲気があったんです。その中で「寺」の付く町はなんとなくフォークらしかったんじゃないかと思います。関西でも寺だらけの京都がフォークの拠点でしたし、武蔵野タンポポ団の山本コウタローさんやシバさんなども吉祥寺から国分寺の間に住んでいました。

僕も高1の時、近所の楽器屋で5000円くらいのギターを買って、吉田拓郎の曲で自分の日常を歌詞にして歌ったりしたものです。ちょうどカセットテープが普及しだした頃だったので録音もしました。さらに本気になった人はバンドを組んで、エレキに持ち替えてプロのロックバンドになったりしているので、その世代はフォークから音楽を始めた人が多いはずです。実はビートルズのブームはさらにその前なので、一度エレキからアコースティックに戻っているんです。

70年代の初頭、フォークは学生運動と密接に結びついていました。でも学生運動が下火になっていく中で、フォークもラブソングになっていきます。そして1972年に吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒット。吉田拓郎はその年に「結婚しようよ」の歌詞のとおり、軽井沢の洒落た教会で結婚式を挙げますが、同じ年に学生運動の終焉を象徴する事件が起こった「あさま山荘」も軽井沢だったんです。1972年はそんな象徴的な光景が見られた節目の年でした。

◆「歌声喫茶からフォークソングへ」
〜俳優・歌手 上條恒彦さん


僕は最初に歌声喫茶で歌手としてデビューしました。僕らの頃はまだギターじゃなくてアコーディオンで、ロシア民謡や労働歌をみんなで一緒に歌っていたんです。だから僕の役割は歌手というよりはみんなで歌うのをリードする司会者でした。

歌声喫茶に入ると1冊10円で60曲くらい入った歌詞の本を買います。お客さんがその中から歌いたい曲をリクエストするので、僕が「次は○ページの曲を歌いましょう」と言って、みんなで歌うというシステムです。当時は毎日50〜60曲は歌っていましたし、僕は週に1日のお休みもほかの歌声喫茶に行ってました。素敵なアコーディオンを弾くおばちゃんがいるとか、あそこの司会者は上手いなんて評判を聞いては、勉強も兼ねて訪ねていたんです。

そんな歌声喫茶にもやがてアメリカのフォークソングが入ってきます。そうなるとアコーディオンじゃなくてギターです。そうやってみんなギターを持つようになっていきました。ただし50年代の終わりにハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」が大ヒットした頃は、まだアメリカ民謡と呼ばれていましたが。

ハリー・ベラフォンテの歌はいわゆるアメリカンポピュラーソングとはちょっと違いました。そして何より、彼が公民権運動の一番前に立っているのに驚かされたんです。彼は「ダニー・ボーイ」も戦争反対という捉え方で歌っていましたね。ハリー・ベラフォンテから入ってフォークソングというものを知ってから、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディランなどに分け入ったという感じでしょうか。

ただ、マイク眞木さんの「バラが咲いた」が大ヒットしたように、日本ではプロテストソングではない雰囲気だけのフォークソングが先に有名になりました。正直、僕のような歌声喫茶の人間は「それはちょっと違うんじゃないか」と思ったものです。でも僕は「歌声喫茶で歌ってきた曲もフォークソングとして通用するんじゃないか」とも思っていましたが。

◆「神田川で石けんがカタカタ鳴る理由は……」
〜作詞家 喜多條忠さん


僕が「神田川」を書いたのは25歳のときで、もう妻子もいました。だから「神田川」はその4年くらい前の21歳のときの体験を歌詞として書いた、いわば日記のようなものです。昭和41〜42年頃は学生下宿と言えば3畳一間か4畳半。地方のお金持ちの子は6〜8畳でしたが、たとえ8畳でも部屋にお風呂なんてありません。みんなプラスチックの箱に固形の石けんを入れて銭湯に通ったんです。ちなみに「カタカタ」というのは石けんが小さくなった状態を表しています。まだ大きい石けんは「ゴトゴト」でしたから。

あがた森魚というフォークシンガーも「赤色エレジー」という曲で同棲しているカップルの暮らしを描いています。「オフトンもひとつほしいよね」という一節は、薄いせんべい布団1枚でふたりで寝ている暮らしぶりですね。布団からはみ出して寒いので「お布団がもうひとつほしい」なんて、本当にわびしい(笑)。でも誰もがそんな生活をしていた時代でした。それでもけっこう楽しかったのですが。

井上陽水や吉田拓郎なんかは自分で作詞していましたし、僕のように作詞を専門とする人間はあまりいなかったと思います。レコード会社に専属する作詞家や作曲家は大勢いましたが、フリーで書いていたのは僕のほかに、なかにし礼さん、山上路夫さんなど、ごく限られた人だけでした。専属だと印税が5〜10倍もらえたんですが、僕はレコード会社に縛られるのが嫌で、安い印税でいろんな人に作詞しました。

僕はいわゆる流行歌では吉田拓郎と組むことが多かったですね。梓みちよさんの「メランコリー」、キャンディーズの「やさしい悪魔」などがそうです。原宿の溜まり場に行くと、ガロのメンバーや井上陽水、吉田拓郎、かまやつひろしさん、太田裕美など誰かがいました。そこで「誰それから歌を頼まれたんだけど、あんた書いてみる?」なんて感じで。「やっぱり松本隆に頼むか」「おいおい、俺に書かせてくれよ」なんてやり取りもしょっちゅうでした。

TOKYO FMの「ピートのふしぎなガレージ」は、《サーフィン》《俳句》《ラジコン》《釣り》《バーベキュー》などなど、さまざまな趣味と娯楽の奥深い世界をご紹介している番組。案内役は、街のはずれの洋館に住む宇宙人(!)のエヌ博士。彼のガレージをたまたま訪れた今どきの若者・新一クンと、その飼い猫のピートを時空を超える「便利カー」に乗せて、専門家による最新情報や、歴史に残るシーンを紹介します。

あなたの知的好奇心をくすぐる「ピートのふしぎなガレージ」。4月2日(土)の放送のテーマは《ロープウェイ》。お聴き逃しなく!

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<番組概要>
番組名:「ピートのふしぎなガレージ」
放送エリア:TOKYO FMをはじめとする、JFN全国37局ネット
放送日時:TOKYO FMは毎週土曜17:00〜17:50(JFN各局の放送時間は番組Webサイトでご確認ください)
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/garage