徳島商から池田の一人勝ち、そして渦潮打線復活の鳴門の台頭で新勢力図か(徳島県)
スポーツ推薦制度や特待生などの枠によって、全国各地に野球部を強化していく私学が誕生し結果を残している中で、唯一私立校の甲子園出場がないのが徳島県だ。
歴史的には、徳島商の時代があって、池田が全国制覇を何度も果たす時代を形成し、やがてやや戦国状況となって、再び徳島商時代。そして、現在は鳴門が県内をリードする形になっている。いずれも県立校で、それぞれの特徴があるチームである。
中でも特筆ものだったのが、1980年代前半に畠山 準(南海→横浜)や水野 雄仁(読売)らで甲子園を席巻した池田の野球である。
1974(昭和49)年から高校野球で金属バットが認可されるようになったが、それが、ほとんどの学校で普及して高校野球といえば金属バットというようになったのは80年代に入ってから。
池田はその特徴を最大限に生かしたバッティングをしていた。具体的には、叩きつけるようなスイングでボールを捉えるのだが、より遠くへ飛ばすためには、筋力をつけるということで筋力トレーニングを欠かさなかった。
また、高音質の金属で反発の強い薄手のものを使用していただとか、より反発を増すためにバットを氷で冷やしていたなどということもまことしやかにささやかれていた。それくらいに脅威だったのだが、高校野球に筋トレを定着させたのは間違いなく池田の強力打線という存在があったからだといっていいだろう。
その一方で、守備練習は徹底したノックで鍛え、ハードな練習を積み重ねた。かつて、池田は山の中の素朴な公立校ということもあって、71年に初出場を果たした時も、また、74年春に準優勝を果たした時も、さわやかさが強調された。こと、74年は部員が11人ということもあって「さわやかイレブン」と称えられた。もっとも、野球部の育ての親であり、人生の大半をそれに賭けた蔦 文也監督は、さわやかというよりは、練習の厳しさで部員が減って、残ったのがたまたま11人だったということを述べ、ことのほかさわやかさを強調するマスコミを牽制していた。
事実、池田の練習は厳しさでも定評があった。それは、自宅を改築してグラウンドの横に寮を造り、夜遅くまで練習漬けにできるという環境を作り上げたことからも窺える。また、たとえ練習試合であっても負けることが許されないプレッシャーもあったという。遠征して試合に負けたら、山の中の学校まで走って帰るというペナルティーを課せるという、今だったら問題になりそうな鍛え方をしていたのだ。
それでも池田には、蔦監督の情熱に感銘して全国制覇を夢見る、有力な中学生が全県から集まった。池田は、全県一区という形になっていたので、県内の有力選手を集めることも可能だったということだ。特に徳島県の場合、当時は尾崎 将司(西鉄→プロゴルファー)の出た海南(現海部)などのある阿南地方に有望選手が多かった。ちなみに、水野も阿南地区の出身である。
[page_break:近年では「打倒鳴門」で新勢力が拡大中]近年では「打倒鳴門」で新勢力が拡大中池田が全国で台頭する前までは、徳島の高校野球をリードしてきたのは徳島商だった。1958(昭和33)年に板東 英二(元中日ドラゴンズ)を擁して準優勝という記録が残っているが、この年は魚津との試合で延長18回再試合の適合第1号になったということも話題となった。それ以上に、この大会で坂東が記録した『1大会での奪三振記録83』は恐らく、永遠に破られることはないだろう。
全国に徳島商の名を示したのはこの年だろうが、四国各県や県内では中等学校の時代から、徳島県の野球といえば徳島商だった。いわゆる“四国4商”の一つとして四国大会でも名を高めていた。
また、徳島商の歴史の中では隠れた全国優勝というのがある。戦火が激しくなってきた1941(昭和16)年に、中等学校野球大会は地区大会開始後に中止になった。それでも代表になった学校で試合は行うことになって、記録に残らない全国大会が開催され優勝している。皮肉にも、これが徳島商の唯一の全国優勝である。
ところで、いかに徳島商が県内で強烈な存在であったのかということは、池田の蔦監督が、「徳島商倒さなんだら、甲子園へは行けんのじゃけん」と「打倒徳島商」を意識して徹底して叩き込んだことでもわかる。それくらいに徳島商の壁は厚くて強力だった。その徳島商を打ち破った池田はそのまま全国でも勝って優勝することができたのである。実はその蔦監督自身も徳島商出身(その後同志社大→全徳島→東急を経て池田へ赴任)なのだ。
池田と徳島商の一騎打ちというような図式が長らく続いたが、それが一段落すると、88年春と89年の春夏は小松島西が代表となっている。小松島西は94年夏にも甲子園に姿を現している。他にも、新野や小松島など徳島県の勢力地図もいささか多面性を帯びてきた。
99年春には鳴門工が73年以来の甲子園復活を果たすと、一気に安定した実績を残すようになった。02年春には準優勝を果たし、全国区でも認知される存在となった。市立校ということもあり、地元での人気も高かったが、鳴門商と統合して鳴門渦潮と新校名になった。
近年徳島県内で絶対的な力を誇る鳴門
そうこうするうちに、以前の徳島商に対抗する勢力としての存在だった鳴門が復活を果たしてきて、12年夏から4年連続出場果たすなど、今や県内をリードする存在となっている。かつては、“渦潮打線”と称せられて、50年夏に準優勝し、翌年春に優勝、その翌春も準優勝を果たすなど戦後の50年代前半に一時代を形成した鳴門。それが、森脇 稔監督の下、形を変えて力強く常勝軍団となってきている。
こうして、公立各校がそれぞれの時代を作ってきた徳島県だが、唯一の私学である生光学園も毎年のように上位には進出する。ただ、あと一つの壁が破れないで苦しんでいる。
県の面積の70%近くが山であり、人口も増加しない徳島県だ。私立高校の存在そのものが少ない県でもあるのだが、そんな中で生光学園が甲子園のチャンスを狙っている。また10年、11年にそれぞれセンバツ出場を果たした川島、城南や、14年春に復活した池田なども「打倒鳴門」を掲げて挑んでいる。
(文:手束 仁)
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