(左)『凍りの掌 シベリア抑留記』(右)『あとかたの街』(おざわゆき/講談社刊)

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『凍りの掌 シベリア抑留記』の新装版と『あとかたの街』の最新4巻が発売された。今年5月に発表された日本漫画家協会賞コミック部門で大賞を受賞した作品だ。作者である漫画家のおざわゆきさんに話を聞いた。

このまま埋もれてしまうのか


--『凍りの掌 シベリア抑留記』(以下『凍りの掌』)は、2012年には文化庁メディア芸術祭マンガ部門で新人賞も受賞しています。もとは同人誌だそうですね。
おざわ 2006年にコミティアという同人誌即売会で販売しました。1巻の印刷部数は200部で、当時の同人誌印刷の最小ロット。2年半かけて3冊にまとめました。

--250ページ超の大作です。3巻は100ページをこえていたそうですが、それだけの情熱はどこからきたのでしょう?
おざわ そもそものスタートは高校の時に提出したレポートです。家族の戦争体験をきくという課題で、初めてきちんと父に戦争の話を聞きました。当時高校生だった私にとって、極寒の地で捕虜として4年も暮らしていたという話は大変な驚きで、とても異質だと感じました。
--異質とはどういうことですか?
おざわ それまで太平洋戦争といって思い浮かぶのは、蚊に刺されたり、白旗をあげてアメリカ軍に投降するというような水木しげる先生の漫画の世界でした。氷点下30度の中での労働。まともな食事も与えられず、ソ連兵が捨てたサケの骨や死んだ仲間の墓前に供えられたものまで食べるような状況。隣に眠っていた人が翌朝には冷たくなっていて、死を怖いと感じなくなる。“絶望”としか言いようがない場所に父がいたのかと。母は抑留されていた時の話をほとんど聞いたことがなかったそうで、この時のレポートを今でも大切に保管してくれています。その時すでに漫画家としてデビューしていた私は、いつかこの話を漫画にしたいと思うようになりました。

--30年越しの思いだったのですね。そして、ある絵画展をきっかけに執筆を開始したとうかがいました。
おざわ 日ソ共同宣言五十年を記念した、勇崎作衛さんという方の絵画展でした。すごい迫力だった。「これはやらなきゃ。今思ったのだから今すぐやるべきだ」という思いが衝動的に湧き上がり、その気持ちのまま会場を出るなり実家に電話をしていました。
--どのような絵だったのでしょう?
おざわ 林の中で材木を切り出す労働風景なのですが、同じような絵が何枚も何枚もあるんです。勇崎さんが体験したことがそのまま写し取られた大きなキャンバスを見て、それほどまでに言いたいことがあったんだと魂を感じました。
--小池書院から最初に単行本が発売されたのは2012年ですよね。描き上げてから結構時間が空いています。
おざわ ずっと単行本化のお話はいただいていたのですが、声をかけてくれた編集の方が異動になったりして頓挫していました。知り合いの編集さんに声をかけたのですが、「うちの雰囲気にあわないから」と断られ、この話はこのまま埋もれていってしまうのか……と。

戦争は体験しないとわからない


--作中登場するロシア語に日本語訳をつけなかったのはなぜでしょう?
おざわ 突然捕虜となった人々は、言葉がわかりませんでした。捕虜になったばかりの頃のロシア語が「×××」となっているのはそのためです。けれど長い抑留生活を経て、単語がわかるようになって日常の会話に織り交ぜるようになり、最終的に会話ができる人も出てきたという描き方をしました。
--訳がないことで、読み手としては大変不安な気持ちになりました。まさに抑留者の方達と同じ感覚です。読者の方からはどのような感想がありましたか?
おざわ 同人誌時代は20〜40代の方からの感想が多かったですね。「祖父もシベリアに行っていたようだが、話を聞くこともなく亡くなってしまった。でもこれを読んで当時を知ることができた」というものが大半です。単行本化してからは抑留されたご本人が手にとってくださるようになり、「あのころの記憶が蘇った」という声をうかがいました。
--おざわさん自身は戦後の生まれです。戦争を描くにあたり心がけていることはありますか?
おざわ 私は、戦争に巻き込まれる感覚は、実際に体験しないと本当の意味ではわからないと思っています。けれど、身近な感覚に落とし込み、それに触れることでわかる部分もあるのではないかとも考えています。今連載している『あとかたの街』では、その場にいた時にどう思うかという戦争の“臨場感”や“感覚”を作品に写し取ろうという野望を抱いて描いています。

感覚を写し取るとは? 異色の戦争漫画と言われた『あとかたの街』の執筆秘話はpart2(8/3公開予定)につづく。

『あとかたの街』は「BE・LOVE」にて連載中(試し読み