九鬼周造『「いき」の構造』(藤田正勝註、講談社学術文庫)。800円+税。

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『「いき」の構造』という論文がある(講談社学術文庫/岩波文庫/角川ソフィア文庫/同Kindle/青空文庫))。

〈いき〉(粋、クール)は
・〈媚態〉
・〈意気地〉
・〈諦め〉
の3要素から構成されている、と主張した論文だ。

〈諦め〉が入っているのがいい。カッコイイ。
手放す、委ねる、固執しない、押しつけない、それが〈いき〉なのだ。
書いたのは哲学者・九鬼周造(1888-1941)。とてもかっこいい人だ。

「いき」を知る江戸っ子


九鬼周造は江戸っ子だ。父は貴族。
周造がおなかにいるとき、母は美術史家・思想家の岡倉天心(1863-1913)と恋愛関係となり、出産後に離縁されている。
幼い周造は、天心が自分のほんとうの父なのではないかと思っていたという。

ドイツとフランスに学び、ベルクソンと交流、ハイデガーに師事、若きサルトルを家庭教師に雇ってフランス語を学んだともいわれる。
またドイツ語Existenz(仏語・英語のexistence)を「実存」と訳すのは、九鬼が定着させたことらしい。

帰国後、京都大学で教鞭を執る。西田幾多郎とともに「京都学派」のスター的存在となった。
主著『偶然性の問題』をはじめ、「偶然」とか「めぐり逢い」を生涯重視しつづけたのも、とても垢抜けた姿勢だった。

母が花柳界の出身だったことと関係あるのかどうかはわからないが、九鬼周造は深川や祇園での遊びや俗曲によく通じていた。
長身でお洒落、お金持ちの遊び人、そして亡き母を心のどこかで追いかけている、寂しさを帯びた人。
まるでアニメのキャラクターのようなカッコよさだ。

都々逸風に歓楽街を吟じる


『アメトーーク!』に「偶然を愛する芸人」という回があったが、九鬼は偶然を愛する哲学者だ。
「偶然」を愛する九鬼は、「韻」について、何度も論文を書いた。

言われてみれば韻とは、意味がまったく無関係な複数の語が、音が「偶然」似ているだけで理由で詩作品のなかで並んでしまうという現象だ。
日本語の詩歌には脚韻があるものがほとんどない。一般に日本語は脚韻に不向きだと言われてきた。

九鬼は論文で、そういった説を各個撃破し、日本語でもじゅうぶんに脚韻のある詩を書けると主張した。
日本語の詩歌の押韻にかんする論文は複数のヴァージョンがあり、『九鬼周造全集』の第4巻と第5巻に収録されている。

九鬼の論文は理論を示すだけでなく、日本語脚韻詩の実作を附録としてたっぷり載せている。九鬼は実験的な詩人でもあったのだ。
そのひとつ、以下引用者の責任で新字新かなに直し、一部送り仮名を補ってみた。

  モンテ・カルロ

モンテ・カルロへ
紋日におじゃれ
粋な湊江〔みなとえ〕
水路で来やれ

カジノはこちら
骰子ころり
カフェエはあちら
財布がからり

海は青々
潮〔うしお〕は真くろ
籐の釣竿
取れるよ鮪

ここは色里
揚屋も御座れ
今宵だけなと
味みてたもれ

都々逸は7775だが、この詩は7575で歓楽街の色っぽい題材をあつかっている。遊び人らしい作だ。

声に出して読みたい、まるで「日本語ラップ」


 そのものずばり「偶然」を題材にした作品もある。
 以下、どうか声に出して読んでみていただきたい。

  偶然性

平行直線の公理
望み通り
証明が出来た?
いや、基本要求を撤回した
問題の核心となっているのは
三角形の内角の和
それが果して二直角?
なに百八十度を少し欠く?
アレキサンドリアで見つけた古本
二千年前の幾何学原論
蠧魚〔しみ〕が食っていようと食っていまいと
ユウクリッドは偉い人
宇宙の姿を線と点とに造り換え
お前と俺、俺とお前
めぐり逢いの秘密
恋の反律
これは人生の幾何
なんとか解いてはくれまいか
甲なる因果の直線を見よ
乙なる因果の直線を見よ
二つの平行線は交わらぬがことわり
不思議じゃないか平行線の交り
これが偶然性
混沌が生んだ金星
因果の浪の寄するまま
二人で拾った阿古屋珠〔あこやだま〕

〈ユウクリッドは偉い人〉のところが、さくらももこ作詞の「おどるポンポコリン」を思わせるが、全体にややラップ調でもある。

数学の話がいつの間にか恋の話になってる非ユークリッド感を味わってほしいところ。最後に出てくる〈金星〉はもちろん、愛の神ヴィーナスのことだ。
〈甲〉〈乙〉はかつて日本の数学の問題でA・Bとかp・qの代わりに使用されていた。その〈乙〉と、いわゆる「乙(オツ)な」をかけたシャレが、うーんなんともシャレオツだ。

哲学だけでなく、キリスト教を題材にした作もある。
2世紀の教父哲学で有名な「Credo quia absurdum」(不合理ゆえにわれ信ず)を題にした作品の末尾はこうなっている。

何の懊悩ぞ
聴け、教父の知恵
反律の臍〔ほぞ〕
「背理の故に信ず」と云え

この最後の〈云え〉は、若干Yeah!気味に読んでくださいメーーン!

ライムスターの声で聴きたい!


帝大教授という高い地位を手にし、通人として祇園に通い、亡母と同じプロの女性を妻に迎えるなど、華やかな暮らしをしていてなお、九鬼の心にはいつも、

「俺はこんな教師暮らしをしていていいのだろうか……」

という虚しさが巣食っていたのかもしれない。

そう思わせる、ちょっとやさぐれた名曲がある。
この作品はあまりにストレートにぶちまけられていて、気恥ずかしいと思ったのか、論文には併録されなかったみたいだ。

では最後の曲、聴いてください。「良心の声」。

  良心の声

かびくさくなったじゃないか
とんだご奉公の代価
けちな教師の臭い
身につくとは何の呪い
ちっぽけな世間への手前
祇園の夜桜もこっそりしか眺められぬお前
京へ来て三年になるな
それが大事な学問の絆?
そんなアカデミックな学問なら
いそのかみ古き都のお隣りの奈良
猿沢の池へでもうっちゃってしまえ
それでこそ江戸っ子のきまえ
五丈八尺のルシャナ仏
百十貫の鉄のくつ
踏む足毎に堅い信念
大地へ刻むのが真の人間
(『九鬼周造全集』別巻所収)

もうこれね、Rhymesterのラップ&バックトラックで聴きたいYO!

MC Cookieと呼ぼう


九鬼周三はこのように、音の響きに敏感で「偶然」を愛する人だった。
だからダジャレも好きだった。

ある年の瀬の晩、同僚のカント研究者・天野貞祐(ていゆう、1884-1980)と仏文学者・言語学者の落合太郎(1886-1969)と3人で四条通の喫茶店に入ったときのこと。

〈給仕の少女に紅茶とビスケットを注文するとビスケットってクッキーのことですかと聞き返された。
「クキはここにある。クッキーならこちらからあげるよ」
と駄洒落を言って笑ってみたが、少女は怪訝な顔をしているし、私は自分たちの用いる言葉が古くなってしまったのかと感じて一抹の淋しさを味わされた〉
(『九鬼周造随筆集』[岩波文庫/Kindle]所収「一高時代の旧友」。引用者の責任で改行を加えた)

どうだろう。
九鬼周造に、いやMC Cookieに、僕はもうメロメロなんだが。
(千野帽子)