『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』(栗原康著、タバブックス)

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はたらかないで、たらふく食べたい──。

そうだね、できるなら最高だよね。でも、現実にそんなことは可能なのか?

働くのは当たり前のことで、私たちは何の疑問も持たず労働にいそしみ、日々を生きている。そこに揺さぶりをかけてくるのが、今回紹介する『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)だ。

著者の栗原康は、アナキズム研究を専門とする政治学者。本書は、アナキストの大杉栄とその内縁の妻で女性解放運動家の伊藤野枝、一遍上人、はたまたクエンティン・タランティーノなどの思想や作品を軸に自身の労働観や恋愛観を綴った、ちょっと風変わりなエッセイ集である。

「はたらかざるもの、食うべからず」を疑え!



この本のベースにあるのは、「今の世の中、生きにくいよね」という不満だ。1970年代初頭に起こった第一次石油ショック以降、日本が福祉国家から新自由主義への転換を図っていく過程で、労働倫理も変化していったという。「仕事は辛いが、正社員として頑張ればちゃんと食っていけるし、家族も養えるよ」(福祉国家)から「どんな仕事にもやりがいがあるから、とにかくがんばってね(福祉も手当も何の保証もないけれど)」(新自由主義)へ、である。そして、この流れに音を上げることを、日本の社会は許さない。

これだけ非正規の仕事がたくさんあるのに、仕事を見つけられないのは、その人がサボっているからにほかならない。おまえのせいだ、おまえのせいだ、はたらけ、はたらけと。

はたらかざるもの、食うべからず。イソップ物語「アリとキリギリス」でもおなじみの格言だが、この正論に、そして「労働」という私たちに当然のように課せられた行為に、栗原は疑問を投げかける。

これだけ仕事がなくなっているのだから、もうみんなでたすけあって、はたらかないで食べていく道をさぐったほうがいいのではないか。というか、そういうたすけあいこそ、ほんらい労働とよぶべきではないだろうか。みんなが小躍りしてしまうようなたのしい空間をつくることこそが、ほんとうの意味での労働ではないだろうか。

キリギリス上等! というわけだ。しかし、こうぶち上げたものの現実は手ごわい。本書の読みどころは、著者が自身の思想を現実に適用させようとした時に起こる摩擦と葛藤にある。それがもっともストレートに出たのが、恋愛にまつわるエピソードだろう。

結婚に付きまとう「生の負債化」


栗原(埼玉在住)は、東京で友人の開いた合コンに参加する。そこで出会った、同郷の女性(小学校の保健の先生)と東日本大震災をきっかけに付き合うことになる。間もなく、彼女から「結婚を前提に付き合いたい」「子どもを作りたい」と告げられた栗原は、とりあえずそうしましょうと答えるが、変な打算があったかもしれないと告白する。

わたしは当時、三二歳であったが、ほとんど収入がなかった。大学院をでたあと、大学非常勤講師の仕事を得たものの、授業は半期でしゅうに一コマだ。大学院時代にかりた借金は六〇〇万円をこえている。(中略)さいわい、かの女は公務員だし、扶養にいれてもらえば、いまの収入でもなんとかやっていける。

子どもが生まれたら自分が主夫をすればいい、両親も助けてくれるだろう。そんな目算もあった。正直に彼女に告げると、幸いにも了承してくれた。しかし、2人の関係には最初から暗雲が立ちこめていたのだった……。

ここから展開するのは、見方によれば、いわゆる夢追い人とそれに愛想を尽かす女性、というおなじみの構図かもしれない。しかし、栗原の結婚についての持論を読めば、なるほど、そういう見方もあるのかと思わされるはずだ。

結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかりを考えるようになってしまう。しらずしらずのうちに、いわゆるカップルの役割を演じていて、それをこなすことが相手のためだとおもいこんでしまう。(中略)むしろ自分がこれだけのことをしているのだから、相手もこれくらいはしてくれないとこまるとおもいがちだ。

相手のことを思っていたはずが、いつしかそれに見返りを求めるようになってしまう。自分の愛情に見合うだけのことを相手はしてくれているか──常にそんなことばかり考えていたら、本来は楽しいはずの恋愛も、しんどいものになってしまうだろう。栗原は、これを「生の負債化」と呼ぶ。

キリギリスを物語の主人公に


そして、この結婚観を、資本主義社会の労働と重ねてみせるところが面白い。「はたらかざるもの、食うべからず」という格言は、例えば別に本当にやりたいことがあって、腰掛けで労働をしているような人間をもからめとってしまう力がある。目的あっての労働が、いつしか労働自体が目的化してしまう。生きていくためには仕方ない、と。

かせぐことはよいことだ。気づけば、それがやりたいことであるかのようにおもわされている。(中略)かせげもしないのに、やりたいことしかやろうとしないのはひとでなしだと、落伍者のレッテルをはられてしまう。

やりたことをやろうとしているだけなのに、負い目を背負わなくてはならないこの状況を、栗原はやはり「生の負債化」と呼ぶ。本書『はたらかないで、たらふく食べたい』は、恋愛や労働といった「生きること」全般に通底する問題としてこれを捉え、宣戦布告する。

笑いと過激なアジテーションを交えながら、ゆるゆると展開するこの戦いの記録は、現実社会の在り方の根本を疑ってみることで、私たちに新たな生き方の可能性を提示する。なにもアリの視点でばかりものを見る必要はない。キリギリスを主役にすることで見えてくるものだってあるのだ。(辻本力)