高津晋吾の持つ日本プロ野球記録といえば通算286セーブ。

高津といえば、スワローズの黄金期を支えた守護神である。

90年オフのドラフトで3位指名を受け亜細亜大学から入団した投手。

90年のドラフト、亜細亜大学といえば、9球団の指名が重複したあの小池英郎と同級生なのである。

亜細亜大学では小池に次ぐ2番手投手だった高津。

決して目立っていた投手ではなく、スワローズも意中の球団とされた小池が「一番嫌いな球団に指名された」とロッテの指名を蹴って社会人に進んだのとは対照的な入団だったことを記憶している。

入団から2年間は、先発として、あまり知られてはいないが、プロ2年間で4つの完投を記録している。

3年目から当時の野村監督に守護神に指名され、セーブ記録を作るまでの投手に成長した高津。

晩年は「高津劇場」といわれ、リードは守るものの、走者を許し、決して最後まで守護神といえる投球内容だったわけではない。

しかし、90年代、野村監督率いるスワローズが実に4度もセリーグを制した黄金期は、高津無しには考えられなかった。

140km台中盤のストレートに、球速を変えた3種類のシンカー、更にはスライダーと、すべてのボールを思うところに制球でき、古田とのバッテリーは、球団史上でも最高のバッテリーといえるのではないだろうか。

そんな高津がスワローズで築き上げた記録は286セーブ。

今日現在でもまだ日本記録である。

その記録に、ドラゴンズの岩瀬が並んだ。

高津が、実働13年間で築いた記録を、岩瀬は実に抑えとして実働8年で達成してしまった。

というのも、岩瀬は入団以来、12年連続で50試合以上に登板し、高津のシーズン最多セーブが37であるのに対し、実に5度のシーズン40セーブを達成している。

絶対的な守護神であると同時に鉄人である。

入団から4年間は、いわゆるセットアッパー、中継ぎ投手として、抑え投手につなぐ役割を任され、セーブは2つ記録しているだけ。

この間、最優秀中継ぎ投手賞を獲得し、最多セーブ投手賞と共に獲得しているのは岩瀬だけという。

当時は「セットアッパー」「ホールドポイント」などという言葉・タイトルはなく、中継ぎ投手の評価は今ほど高いものではなかった。

岩瀬の中継ぎ投手としての活躍が、オールスターファン投票に「中継ぎ部門」が創設されたとも言われている。

中継ぎとしても一時代を築いた岩瀬、ストッパーに転向してからも、すばらしい活躍。

8年間で280セーブ。

勤続疲労が激しいリリーフ投手につき物の、故障とは無縁。

シーズンを長く休む年もなく、ドラゴンズの9回のマウンド守ってきたことは、もっと評価されてもいいかもしれない。

近年のドラゴンズは、少ない得点を強力投手陣で守るという形で勝っていくチーム。

今でこそ浅尾という後継者が育ってきているが、岩瀬の存在無しには考えられなかっただろう。

近年は、全盛期ほどの安定感はなく、負けが先行する年もあるが、通算防御率2.08というのは、690試合登板という数字に続いて誇れるものだろう。

言わせといえばスライダー、高津といえばシンカー。

来ることがわかっていても打てない変化球を持たなければ勤まらないストッパー。

先発なら10勝を20年、あるいは20勝を10年続けなければ到達できない名球会。

それに対し250セーブというのは条件が低すぎるという声もあるようだが、10年以上も怪我なく、登板するか、しないかもわからず、毎日にブルペンに入り肩を作る。

まさに身を粉にして準備しなければならない守護神という立場。

これまでも1年・2年は守護神として活躍できたが、故障でプロ野球を去った投手を何人も見てきた。

25セーブを10年続ければ達成できる250セーブだが、やった者にしかわからない苦労があるはずである。

スワローズのOBである高津の記録が塗り替えられるのはスワローズファンとして寂しい気もするが、181cm85kgというプロ野球選手としては、ごく普通、決して恵まれた体というわけではない岩瀬投手が達成する大記録にプロ野球ファンとして心より拍手を送りたい。

強力投手陣のドラゴンズにおいて若手の台頭は激しく、勢いだけなら岩瀬より力のある投手はゴロゴロいることだろう。

しかし、リードを守ったまま9回のマウンドを降りること286回の経験は、これまでに高津と岩瀬しかいないのである。

「岩瀬劇場」と言われても、リード守り抜くのが守護神の仕事。

燃え尽きるまで9回のマウンドに上がり続けて欲しい。