「日本人らしさ」になぜこだわる? 協会が掲げる「ジャパンズウェイ」に感じる曖昧さ
ご都合主義に映る“ジャパンズウェイ”のキャッチフレーズ
日本サッカー協会が言う「Japan’s Way」とはなんなのだろう。
「日本人らしさ」ということだろうし、ボールを保持して攻撃するとか、チャレンジ&カバーでソリッドに守るなど、それらしいことは言える。
ただ、日本の選手が普通にプレーすればジャパンズウェイ以外になりようはないわけで、協会の挙げる「日本人らしさ」が、ドイツやブラジルやナイジェリアにはない日本特有のものかというと、そうではない。エディー・ジョーンズ監督がラグビーの日本代表で「ジャパン・ウェー」と言い出したのは、もっと戦術的な意味があったはずだが、協会が掲げるジャパンズウェイはかなり曖昧模糊としている。
イビチャ・オシム監督が「日本サッカーの日本化」と言い出したあたりから、「日本人らしさ」が、さも大事なふうに思われてきた感があるのだが、ワールドカップ(W杯)を勝ち抜いていくのにそれがそんなに役に立つとは思えない。むしろ、日本人らしくないものを身につけるほうが結果に直結するかもしれない。
例えば、ロシアW杯ラウンド16のベルギー戦(2-3)で空中戦を挑まれた時、日本代表にあれを平気ではね返せる高さと強さがあれば、2-0のスコアを逆転されたりしなかっただろう。
アジアカップでは吉田麻也と冨安健洋のセンターバック2枚がハイクロスへの強さを見せていた。ゴール前の高さや強さは日本の弱点であり、ある意味で「日本人らしさ」でもある。吉田、冨安はその点で日本人らしくない。つまり、長所については日本人らしいままでいいが、短所については日本人らしくないほうがいいわけだ。上手くいったらジャパンズウェイだが、惨敗したらたぶん誰もそんな話はしない。ご都合主義のジャパンズウェイである。
日本代表の強化において、「日本人らしさ」は関係がない。今のところ日本サッカーは均質性が高く、外国人から見れば日本のチームは以前からずっと日本らしかった。韓国との区別はつきにくいかもしれないが、スウェーデンやナイジェリアのユニフォームを着てプレーしてもすぐにバレる。フランスはアフリカのチームと間違えられるかもしれないが、日本にそれは起こらない。均質的な選手たちは考え方も体格も似ているから、長所も短所もはっきりしている。それ自体は勝負において良くも悪くもあるわけで、戦いの場において「日本人らしさ」は制約にすぎない。日本らしいプレー以外に選択肢がないのだ。ライオンは、ハゲタカやワニのように戦えないというだけの話である。
日本協会は目指すサッカーをしっかりと言葉で定義すべき
強化においては、勝つために有利なことを追求するだけで、それが日本人らしいかどうかなど考える余地はない。合理性だけが正しい。
一方で、代表チームの使命は勝つだけではない。日本のファンが共感するプレーをすることも重要な使命だ。W杯に優勝する以外、代表チームはどこかの段階で必ず負ける。結果よりも、どうやって勝とうとしたかのほうが、より重要とさえ言える。
ファンが「面白かった」「感動した」と言ってくれるようなプレーを目指さなければいけない。何が面白いのか、何が人々に共感と感動を与えるのか、それは人それぞれかもしれない。けれども、代表チームを統括する協会はサッカーのエキスパートなのだ。自分たちが「これだ」と思っているものを、自信を持って打ち出せばいい。
曖昧な「ジャパンズウェイ」などというキャッチフレーズに逃げ込まず、日本のサッカーをしっかりと定義すべきだ。我々はこうプレーすると宣言する。間違っていたら、そこから修正すればいい。勝てば日本人らしかったのなら、負ければ日本人ではないのか? そういうことではない。何をしようとして、結果はどうだったのか。「何」の部分が「日本人らしく」では、どうにもならないのだ。
せめて「日本人らしさ」とはサッカーにおいて具体的になんなのか、ディテールから言語化すること。言語化しただけでは当然なんの意味もないので、それを身体化して現実のプレーに反映させるにはどうするかも示す必要がある。
記憶するかぎり、協会がそれをやったことは一度もないのだが……。(西部謙司 / Kenji Nishibe)