全てを必然に変えた秋田豊の意識改革。貫徹させたのは「サッカーがしたい」思い
秋田豊には4回の転機があった。1993年鹿島アントラーズに入団。2004年名古屋グランパスエイト(当時)に移籍。2006年 J2の京都パープルサンガ(当時)に移籍し、京都の昇格 を決めた後に引退する。

強面のキャラクターだが、それぞれの場面で悩みはあったという。鹿島に残っていれば、名古屋にずっといれば、と言う人もいるそうだ。だが秋田は常に新しい道、違うチャレンジを選び続けた。

今、それぞれのときを思い出して何を思うのか。転機を振り返ってどう感じているのか。苦しい局面で自分を奮い立たせてくれた歌を教えてくれるとき、秋田はちょっとはにかんだように見えた。


【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:高野宏治】


Jクラブから拒否された秋田豊



僕はね、大学を卒業するとき、最初はサッカークラブからの引きがなかったんですよ。元々名古屋の大学だったんでグランパスに行きたくて、大学の監督に話をしてくださるようお願いしたら「(Jクラブから)いらない」って言われて。

高校時代から「サッカーで飯食っていこう」と思っていたんです。高校のころはJリーグの影も形もなかったから実業団チームでプレーしたいって。ところが大学時代にJリーグができて、大学2年ぐらいからはプロになりたいと思うようになってました。

ただ僕なんて箸にも棒にも全然引っかからない選手でしたよ。技術が全然なかったし。それが高校のとき、運良く東西対抗戦のメンバーに入って、静岡の選手たちと一緒になったんで優勝することができたんです。静岡の選手たちにパス出すとみんなやってくれた(笑)。そこで優勝したことで自信を得て「オレ、これで飯食おう」って。

そのときに気付いたのが、「選手としてやっていくためには何か武器が必要だ」って。松井秀喜だとホームランを打てるとか、イチローだったらヒットがたくさん打てたり肩が強いとか。そういうのを作らなきゃいけないと思ったので、「自分はヘディングだ」って高校2年から決めて。そこから毎日練習ですよ。

ボールを手で投げてもらったり、あとは蹴ってもらってジャンプヘディングとか。常にジャンプの一番最高点でヘディングするっていうのをずっとやってました。バカみたいに。他にも朝は陸上部と一緒に走ったりして。もう全然体力変わりましたね。人と同じだったらそれまでじゃないですか。だからそんなこともやってました。

高校を卒業するとき、大学から誘ってもらったんで、愛知学院大学に行くことにしたんです。中央大学や同志社大学からも少し話をもらったんですけど、地元でそんなに強くないチームを強くしたいと思って。

そうすると、たまたまなんですけど、大学の監督が早稲田大学卒業で、鹿島(アントラーズ)の野見山篤強化部長(当時)とは先輩後輩の仲で。それで大学時代の4年間、鹿島の前身の住友金属(工業蹴球団)に毎年行ってキャンプをやらせてもらってたので、その関係で野見山部長から「ウチに来い」って言われたんです。

あのころの住友金属は日本リーグ2部だったから基本的には行きたくなかったんです。けれど本田技研の選手たちとかジーコが入るので絶対強くなるだろうと思って決めました。

需要を見出した秋田のヘディング



鹿島に入って1年目から試合に出してもらってましたけど、あれも本当は出る予定じゃなかったんですよ。開幕前にイタリア遠征に行って、たまたまチームの調子が悪かった。そのときジーコが「お前サイドバックやってみろ」って。そこからスタートして、最初はサイドバックで出ていたんです。

大学時代の4年間ももちろんヘディングの練習を続けていました。ジャンプの最高点でボールを触ることはできるようになっていたんです。けれど、高校選手権のときは自分の最高打点が負けるということを経験しました。

プロにもならないヤツがこんなにヘディングの高さがあるんだってことがショックで。こりゃジャンプ力を身につけなきゃいけないってことで、ウエイトトレーニングをやり始めました。それが運良くはまって、強さも他の選手たちに負けないし。特長を持った選手になれたんです。

ジーコはセンターバックにヘディングを求めるというのはありました。ただ僕は技術がなくて止めて蹴るというのができなかった。だから、そういうトレーニングをずっとやりました。ジーコは僕を見て「何か使えないか」「特長を使えないか」と考えてくれたんだと思います。

サイドバックの守備力を上げる、クロスへの対応力を上げるということで、僕がサイドバックに入ったんです。するとサイドラインの近くからゴール前に入ってくる人間とか、サイドバックとセンターバックとの間に入ってくるFWに僕が競ることができて、そこは負けることがなかった。で、そこからサイドバックとして出られるようになったんです。だけど、ホントたまたまです。

結局助けてくれたのは、それまで自分のやってきたものの全てだと思いますね。陸上部と練習したから走れるようになってたし。それから大事なときに助けてくれるのは自分の武器のヘディングですよ。得点もそうだし、逆に危ないときにヘディングでクリアするときなんかで。

サッカー選手はみんな空中戦をやりたがらないですしね。特に今はそういう選手が多くなりましたね。でも世界の中でハイボールがないかというと、往々にしてある。ラフな試合を決定づけるのって、セットプレーなんかも含めてそういう高いボールじゃないですか。

得点の30パーセントはセットプレーからですしね。そういう意味では、セットプレーの重要性ってメチャメチャあるし。僕は人が好まないヘディングに特長があったから、需要があったんですよね。

本当は足下もうまくてヘディングも強かったら無敵なんです。今は大きい選手で足下がうまいっていう選手はいると思うんです。例えば杉本健勇(現セ大阪)は昔、足下がうまくて速かった。だから、あとは187センチの高さを生かしてヘディングが強くなったら絶対代表じゃんって。

それで僕が東京ヴェルディのコーチだったときに杉本が移籍してきたんで、練習前にクロスからのヘディングシュートを教えたりしてたんです。ヘディングの練習にはいろんな選手が嫌な顔してましたけど、杉本は今、点が取れるようになりましたからね。それは足下だけじゃなくてヘディングもあるからだと思ってます。



日本代表を実現させたプロ意識



大学って自分で自分がやることを決める場所じゃないですか。やらされてやる所じゃない。高校のときはほとんど学校が、これをやってくれ、あれをやってくれ、これやんなきゃいけないってやらされたりします。

でも大学に行ったら自分でやろうと思わないと、遊べるし酒も飲めるし、そうなるとやった人間とそうじゃないのとで差がハッキリしてくる。時間ができたとき、そこをどうするかなんですよ。自分で将来に向けての準備をできる時間ではあるから。勉強もできるだろうし、運動もできる。

僕は大学にサッカーをやりに行ってたし、やりたいことがあったから、そこに向かってトレーニングしたというのがよかったですね。そうしたら鹿島に入ってからは順調に、というか順調以上に物事が進んで。日本代表に入りたいとは思ってましたけど、すごく難しいとも思ってました。

学生時代に持っていたメンタリティというのは、鹿島にいってからすごくプラスになったんです。ある意味ではプロ意識は持ってたから。ジーコに「夜中にフラフラ出歩いてるんじゃない」って言われても「当たり前でしょう」と答えられたし。

だけど、質っていう部分、技術的な部分にギャップがすごくあったんで、そこは苦労しました。でも自分で意識して、努力してうまくなればいいわけだし。日々、プロのレベルに近づいていったからギリギリサイドバックとして出られるようになったんです。

そうは言っても、初めて親元を離れてプロとして、仕事としてサッカーをやるわけじゃないですか。そういう不安ってありましたけどね。自分がダメになったときどうなるのかとか、何をしたらいいのかとか、そのころはイメージもできなかったし。

ただよかったのは、こうと決めたら真っ直ぐにそこに向かって行く、そういうタイプの人間なんで、目の前のことをやっていくことによってだんだん代表も見えてきたし、代表に入ることはできるようになってきましたね。

「J2でもやりたい」常に思う選手の性



2004年の名古屋への移籍は……まぁクラブと自分の力のバランスだから。わかってるんだけど、いつか来る日だとはわかってるんだけど、それはね。でもね、ショックでしたよね。

本当に鹿島が自分の家だと思ってたし、街の人たちも温かったし。子どもたちも鹿島という街が大好きだったんで。オレだけじゃなくて家族がみんなショック受けてて。でも、うーん……下ばっかり見ててもしょうがないし。ただ不安ですよね。本当に仕事があるんだろうかって。

そうしたら鹿島との契約が終わったというニュースが流れたあと、4クラブぐらい話が来て。それはよかったですね。そこでしっかりと僕を評価してくれて金額的なところでもちゃんとした額がもらえたのでよかったです。それまでって2000年ぐらいにグランパスから話が来たというのはあったけど、そんなに他のクラブから声をかけられてたというのはなかったですからね。

家族は大変だったと思うんですけど、妻も名古屋の人間だから、そこはよかったかもしれないですね。そこからはずっと家族はずっと名古屋にいます。

だから2006年にJ2の京都に移籍したときは単身赴任でした。名古屋からはコーチとして残らないかという話はありました。ありましたけどね、やっぱりね、いろんな選手が長くサッカーやるけど、その気持ちって重々わかるんですよ。

「自分はまだできる」って常に思いたいし、サッカー好きだからやりたいんですよ。自分もそうだったから「J2でもやりたい」って思ったんで。それでプレーさせてくれた京都の稲盛和夫名誉会長には感謝してます。京都では監督もやらせてもらったんで。

京都では昇格を決めた入れ替え戦にもクロージング役として出場しました。その年で契約が終わったんですけど、それは監督の久(キュウ/加藤久)さんが決めたことだから。

実はその年に2回ぐらいモチベーションが上がらなくて体が動かなかったときがあったんですよ。自分が結果を出しても、まぁそれは自分なりの解釈なんですけど、自分がこれだけ結果を出してるのに、評価してもらえないって思って。

それだったらあんまりプレーする意味ないなって思うようになって、これはもうダメだなって。モチベーションが持てなくて「これはもう辞めたほうがいいんだな」って思い始めて。

それまでもうまくいかないことはあったけど、モチベーションというか、自分の気持ちをコントロールできなくなるというのは一番のショックでした。そのときに「もう辞めたほうがいい」と思って引退を考えて。夏ぐらいかな。

それで、シーズンの途中で本当に辞めようと思って名古屋に帰ったんですよ。「やってらんない」って、社長に「ありがとうございました。もう辞めます」って言って。

そうしたら妻に言われたんです。「子どもになんていうの? 試合に出られないから辞めたって言うの? そんなこと言えないじゃん!」って。

それでやらなきゃいけないと思ったし、久さんも助けてくれました。「一緒に最後までやろうぜ」みたいに言ってくれて、「じゃあ頑張ろう」って思い直して、シーズンの最後までやったんです。



鹿島から出て見つけた「学ぶ楽しさ」



正直に言うと、(名古屋に移籍する)2004年は鹿島にコーチとしてだったら残れたんです。コーチの話はいただいてたんですけど「まだプレーしたい」と自分から拒否しました。

自分で決めたから受け入れなきゃいけないし、でも寂しい気持ちはあって。移籍することになって悲しい気持ちはずっとありましたけどね。ただ、今考えると鹿島だけを見てるよりも、外に出て逆に鹿島のよさも感じることができた。

これも会社を変えるのと同じで、いわゆる転職なんですけど、そこで思ったのは「人生において無駄ってない」ってことでしうた。

他のクラブに移ってから、いろんな人やプレーを見ることで自分の価値観が変わりました。そういった経験が、今の自分を作ってくれたんだと思います。

(移籍先である京都の)関西では暮らしたことがなかったんで、すごく刺激的でしたし。やっぱり名古屋と茨城と関西はまったく違いましたね。そういう意味ではすごく学んだというか。

名古屋はホントにまとまった地域で、一つの国のようだし、外のものを受け入れないように見えて最終的には受け入れるし。茨城はとても人がいい場所でしたし。関西はまず言葉が違いますよね。文化的には、関西は何か面白くないと受け入れてもらえない。だから1年間はすごく苦労しました。

でもそういう違いを知ることができただけでも面白くて。だんだんいろんな所に行っていろんなことを学ぶのが楽しくなりました。相手が子どもであっても、学ぶことがあったら自分としては受け入れたいなって思えるようになって。

そういう価値観を変えてくれたと思います。昔は頑固で「オレのこの考えが全てだ」って感じでした。そういう考えも必要なんですけど、それ以外に学ぶということの楽しさってあったんですよね。

鹿島のときから僕は監督、コーチをやりたいと思ってたんで、そういう勉強もしつつ、そういう意味では人を見ることができたのかなって。結局、人に何か伝えようとしたとき、やっぱり心に入り込めないと伝えることができない、同じことを伝えても伝わらないことを学べましたね。

奮い立たせてくれたGReeeeNの「歩み」



善し悪しは別として、自分のライフスタイルというかポリシーとして、いつも気持ちで全てをコントロールしたかったんです。でも京都のときはコントロールできなくなってくるときもあったんですよ。

ただ、常に自分を俯瞰して見られるようにしなきゃいけないとも思ってました。だからコントロールできなかったことで、もうダメだと思ったんです。それが引退のきっかけのひとつでもありましたね。

ホントは何でも自分でコントロールしてたいんですけどね。相手選手を「削る」ときもコントロールしてましたからね(笑)。

京都で現役生活を終えたときって完全に環境が変わりました。そのときに聴いてたのが、GReeeeNの「歩み」です。やっぱりこう、自分が……(黙考)、苦しいときに、監督時代もそうなんだけど、自分がまだまだできるんだってことが歌の中にあるんですよ。

僕が京都の監督時代になかなか勝ち星が拾えなくて、そのときもこの歌を聴いてました。「歩み」を聴きながら「まだまだできるんだ」って奮い立たせて毎日トレーニングに行ってたんです。いい歌ですよ。苦しいときにはぜひ聞いてみてください。