「エディとフィルが加入して、俺たちが特別なバンドになったと感じたよ」とキルミスターは以前語っていた。書籍『Lemmy: The Definitive Biography』(ミック・ウォール著)によると、「あのバンドは初日から最高のバンドだった。(前のバンド)ホークウィンドでは3曲しか作ったことがなくて、まだ上手く曲作りができなかった。しかし、このバンドは常に永遠の負け犬で、俺たちはそれが得意だったのさ」

楽曲『Ace of Spades』での、エディの牙を剥くようなロックンロール・リフを、キルミスターのつっかえながら進むベース・ラインが補い、フロントマンが「死者の手」を握るという歌詞を激しい苦痛を伴う嘆きのように歌う。この曲は彼らのシグネチャー・ソングとなった。また、殴打の如く響く『Overkill』に彼はブルージーな感触を加え、ファン一番人気の『No Class』にはファンキーなジョン・リー・フッカー的リフを加えている。『Overkill』は後にメタリカがカバーした。そして、ライブ・アルバム『No Sleep Til Hammersmith』収録のバンド名を冠した曲『Motorhead』は、キルミスター渾身のアンフェタミン賛歌で、イギリスのヒットチャートでバンド最高位まで上がったシングルだ。

モーターヘッドが世界で一番ラウドなロック・バンドという評判が立ったのはクラークが在籍中の時だった。バンドの伝記本『Beer Drinkers and Hell Raisers』(マーティン・ポポフ著)で、クラークは次にように語っている。「あれはな、俺のせいじゃないぜ。俺はとにかく自分の音が聞こえるように努力していただけで、その結果として俺の横にアンプが積み上がっちまっただけだよ。それにレミーのアンプだってどんどん増えていたし、フィルはモニターをデカいのに変えたんだから。あれは……3人全員のせいさ。だって俺たちは絶対に互いの領域に侵入しなかったから」

クラークがモーターヘッドとして最後に参加したのが1982年のアルバム『Iron Fist』だ。クラーク脱退後、シン・リジィのギタリスト、ブライアン・ロバートソンが加入した。バンド内の確執がクラークに脱退を意識させ、決意を促した最後の一撃は、タミー・ワイネットの『スタンド・バイ・ユア・マン』のカバー曲をフィーチャーしたEPで、プラズマティックスと提携するとしたバンドの決断だった。同書で「モーターヘッドが物笑いの種になる危険をはらんでいると俺は思ったよ」とクラークは語っている。「でも連中もすでに俺の存在はないものとしていた。あのバカどもが!」

モーターヘッド脱退後、クラークはファストウェイをピート・ウェイと結成し、1983年にセルフタイトルのアルバムでデビューした。ファストウェイは、ヘヴィメタルとヘアメタルの人気上昇という時代の流れに上手く乗り、80年代に立て続けにレコードをリリースしたが、90年代初頭に解散する。デビュー・アルバムからシングル・カットした2曲『Easy Livin』と『Say What You Will』は、ビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで上位に入った。そして、バンドの最後のヒット曲となったのが1984年のアルバム『All Fired Up』収録の『Tell Me』だった。この2枚のアルバムはトップ100以内に入ったが、1988年のアルバム『On Target』は135位止まりだった。

ギターを弾く傍ら、クラークはレコード・プロデューサーとしても活動し、ヘヴィメタル・バンドのタンクのシングル曲『Dont Way Away』(これは後にソドムがカバーした)他、彼らのリリースのプロデュースを行った。これ以外に、Assassin(アサシン)、Miss Daisy(ミス・デイジー)のプロデュース、モーターヘッドのアルバム『On Parole』の共同プロデュース、ファストウェイ作品のプロデュースなども行った。

1994年、クラークはソロ・アルバム『It Aint Over Till Its Over』をリリースした。このアルバムでは『Laugh at the Devil』でキルミスターとの再共演を果たしている。その後、クラークは数十年に渡ってレコーディングとパフォーマンスを続け、ソロ・レコードをリリースし、ファストウェイとの再結成も実現した。彼の最後のLP『Make My Day - Back to Blues』は2014年にリリースされた。