赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987年)
赤瀬川ら「トマソン観測センター」の観測記録をまとめた一冊(単行本は白夜書房刊)。その表紙カバーは、アークヒルズ建設で消えた麻布谷町に存在した銭湯のエントツの写真。そこに写りこんだ、エントツの先端のわずかなスペースに立ちながらカメラを掲げる撮影者(カメラマンの飯村昭彦)の姿には、冷や冷やしてしまう。なお、この銭湯は現在のサントリーホール付近に位置したという。

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1、2より続く
■日本のなかの世界――地図のアナロジー
赤瀬川原平は1937年、香港で生まれた。その後、海運関係の倉庫会社で働く父の転勤にともないイスタンブール、カイロと転々とし、やがて落ち着いたエチオピアで幼稚園から高校入学まですごした。高校時代にはクウェートに引っ越し、さらに武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入るため北京に上京……と、ここまで書くと、ムサ美が北京にあるわけないだろ! とツッコミが入ることだろう。

タネ明かしをすれば、これは1985年に赤瀬川がある雑誌の対談で、日本地図を世界地図に見立てながら自身の足跡を語ったものである。その元ネタは、大本教の教祖である出口王仁三郎の『大本神歌』で、そこでは北海道は北アメリカ、本州はユーラシア、四国はオーストラリア、九州はアフリカの各大陸に見立てられていた。上記の地名も、赤瀬川の出生地とされた香港は横浜、イスタンブールは芦屋、カイロは門司、エチオピアは大分、クウェートは名古屋、そして北京は東京に符合する。

赤瀬川はこの地図のアナロジーを、対談相手の四方田犬彦(比較文化・映画研究者)から教えられたという(対談も四方田の著書『赤犬本』に再録されている)。のちに自著『優柔不断術』(1999年)でもこのアナロジーをとりあげた彼は、これは科学ではなく、イメージ上の遊びだとしたうえで次のように書く。

《でも形のアナロジーがあり、風土のアナロジーがあり、やはり不思議な入れ子構造というか雛型構造が、見ようとすれば見えるのである。/自国が世界の中心であるという考えは、どこの国でもあるだろう。それが国粋主義やその他に発展したりもするわけだが、この場合はそういう観念の固まりとは違って、実物照合の糸口があるところに、何かしらクリアーな不思議を感じるのである。自国を神秘化するのは一方で危険なことではあるのだけど、でもこの自国をただの自国としてすませるわけにはいかない。自国一般以上の自国として、この国の研究課題は多い》

「自国をただの自国としてすませるわけにはいかない」という赤瀬川の言葉は示唆に富んでいる。このアナロジーは、ある種の危険性をはらむ一方で、自国をいたずらに特殊化せず、相対化して考えるのにも有効な手立てとなるのではないか。例の対談ではたとえば、出雲のある島根半島とフランスのブルターニュ半島が重ね合わされていた。奇しくも出雲もブルターニュも蕎麦が名物として知られる。ここから蕎麦文化が日本だけのものではないことが理解できるだろう。

この地図のアナロジーは、じつは赤瀬川がそれ以前より芸術作品や文章を通じて提示してきた、極小のものから極大を見出す独特の物の考え方と通底するものがあった。今回は、そうした赤瀬川の「小は大を包みこむ」的な思想(本人はずばり「貧乏性」と表現していたりするのだが)と、それに裏づけられた路上観察などの活動を見てみたい。

■日用品の梱包から一気に宇宙の梱包へ――「宇宙の缶詰」
赤瀬川が1963年から翌年にかけて、同じく美術家の高松次郎と中西夏之と組んだ「ハイレッド・センター」については以前にもとりあげた。その1964年6月のグループ展で、赤瀬川は「宇宙の缶詰」なる作品を発表している。

赤瀬川はそれまで、「梱包芸術」と称して、扇風機やラジオなどといった日用品を梱包する一連の作品をつくってきた。だがそのうちに、このまま自動車だの東京タワーだの包む物を大きくしていったとしても、そこには単純なエスカレートしかないと思いいたる。そこで彼は一気に極点に向かい、宇宙を梱包することにしたのだ。それが「宇宙の缶詰」なのだが、その制作に使われたのは蟹の缶詰を空けたものだけ。これでどうすれば宇宙が梱包できるというのか?

具体的に説明すれば、まず、空にした蟹缶の外側のレッテルをきれいに剥がし、もういちど糊をつけて、その缶の内側に貼り直す。そして開けたフタを再度閉じてハンダ付けで密封してしまうのだ。

《その瞬間! この宇宙は蟹缶になってしまう。この私たちのいる宇宙が全部その缶詰の内側になるのです。そうでしょう。その缶に密封されて、外側(原文では傍点)に蟹のレッテルを貼られてしまったのだから。この宇宙の構造は閉じているのか開いているのか、宇宙の果てというのはどうなっているのか、人類にはまだ何もわかりませんが、それがわからないまま、わからないこともひっくるめて、その蟹缶がすっぽり包み込んでしまったのです》(赤瀬川原平『東京ミキサー計画』)

何だか狐に包まれた、もとい、つままれたような気持ちにもなるが、理屈は通っている。同時代には、クリストというブルガリア出身のアーティストが赤瀬川と同様に日用品を梱包していたものの、やがてその対象を建築物など都市の景観、あるいは山や島のような自然へと広げていった。いかにもヨーロッパ人らしい壮大な展開だが、赤瀬川はそれを缶詰というごく小さなもので、概念としてはよりスケールの大きなことをやってのけてしまったわけだ。

美術評論家の山下裕二は、安土桃山時代の茶人・千利休が建てたと伝えられる京都の茶室「待庵」に赤瀬川と訪れたとき、床の間にこの「宇宙の缶詰」を置いたという。利休と「宇宙の缶詰」に近いものがあると思って、そうしたのだ(『文藝別冊 赤瀬川原平』)。

赤瀬川が映画「利休」(勅使河原宏監督)の脚本を手がけたのは、それより前、1989年のこと。その公開の翌年には、利休を通して、前衛芸術の本質や赤瀬川自身の芸術活動を顧みた著書『千利休 無言の前衛』を岩波新書から刊行した。そこでは、一坪だけの茶室などを例に、極小のものにより多くのものを格納しようとした利休の美意識が、不要になった輪ゴムをつい貯めてしまうような「貧乏性の美学」と同列に論じられていた。

■「分譲主義」から「トマソン」へ
赤瀬川は、自宅の各設備をほかの場所に分散して持つという「分譲主義」なるものを、イメージ上の遊びとして提唱していたことがある。これは、フリーランスのデザイナーや広告関係者などのあいだで、自宅とはべつに事務所やセカンドハウスを持つ傾向が出てきたのに着想を得たものだった。

赤瀬川が尾辻克彦のペンネームで書いた小説「風の吹く部屋」(1981年。『国旗が垂れる』所収)でも、著者の分身と思しき父親と小学生の娘が、自宅から電車に乗って風呂場に出かける。といっても銭湯ではない。あくまで父子が自分たちの風呂場として借りているものだ。その作品の終わりがけ、娘が今度は廊下が欲しいと言い出し、父子は風呂の帰りに不動産屋に立ち寄った。だが、《あのう、うちは風呂場は高円寺なんだけど、いま住んでいるのが国分寺なんで、まァ、吉祥寺か三鷹あたりに廊下があれば理想的だと……》と切り出す父親に、不動産屋はにべもない。

《「予算、どのくらいなの?」
「いや、あんまり……、まあ幅一メートルの長さ五メートルで月に五千円くらいならと思って……」
「あのね、お客さん。そりゃ予算のないのはわかるけどね、五千円でそのくらいの廊下があれば私が借りますよ、わたしが」》

廊下を自宅とは別に持つというのも然ることながら、それ以前に、廊下が単体として街なかに存在するという発想が突飛だ。しかし、この発想がのちに「トマソン」という街なかの無用物探しへとつながっていくことになる。

トマソンとは、プロ野球の巨人で1982年に4番打者を務めた助っ人外国人選手からその名をとったものである。巨人のトマソンは打席に立っては空振りを続け、「扇風機」などとあだ名された。ここから、ちゃんとしたボディがありながら、世の中に役に立つ機能というものがない「超芸術」的物件をトマソンと呼ぶようになったのだ。

■路上観察とバブルの時代
トマソン物件と赤瀬川の最初の遭遇は、1972年にさかのぼる。東京・四谷の旅館の壁面に、昇ったところに扉も何もない階段を発見し、これを「四谷純粋階段」と名づけた。1980年代に入ると雑誌連載で読者からトマソン物件を募るようになり、「トマソン観測センター」なる団体も結成した(1983年)。トマソン探しの路上観察は、その後さらに観察対象を拡大して「路上観察学会」(1986年結成)の活動へと発展していくことになる。

トマソンの観察記録をまとめた著書『超芸術トマソン』(1985年)の表紙カバーには、エントツを真上から撮った写真が載っている。これは麻布谷町、現在の六本木一丁目にあった銭湯のエントツだ。この町には人家が密集していたが、80年代に森ビルの再開発によりすべての住民が立ち退きを余儀なくされた。赤瀬川たちトマソン観測センターの面々は、工事開始前後に何度か谷町に足を運び、廃屋となっていた家々の様子をカメラに収めたりスケッチしたりして、町が消えていく過程を記録している。やがて工事が始まると、その名のとおり谷合の低地にあった町は、新たにできる町の地下となった。こうして完成されたのが、1986年にオープンしたアークヒルズである。

86年といえばまさに、日本がバブル景気に突入した年だ。それからというもの日本の都市、とりわけ東京は大きく変貌をとげていく。この間の赤瀬川たちの路上観察は、図らずして変わりゆく東京の姿を記録することにもなった。

ここまで見てきたことからわかるとおり、赤瀬川の活動はじつに多岐におよぶ。では、美術家としての赤瀬川原平の代表作を選ぶとしたら何になるのだろうか? と仲間内で話題にのぼったとき、建築家の藤森照信は一言「ないんじゃない」と言い放ったという(赤瀬川原平『全面自供!』)。それはたしかに当たっているのかもしれない。率直にいえば、「宇宙の缶詰」にしても「大日本零円札」にしても、作品そのものが美しいとか趣きがあるというよりは、それを生み出した赤瀬川の思考が面白いのであり、高いオリジナル性を持っているのだ。赤瀬川は著作とともに、自分の活動に関する資料の類いも貧乏性ゆえにたくさん残している。おかげで私たちは本や美術館での展示などを通して、彼の思考の軌跡を追体験することが可能だ。ただ、本を読んだり作品を見るだけで満足してしまっては、もったいないような気がする。

学費稼ぎで始めたサンドイッチマンのバイトに始まり、ハイレッド・センターでの路上パフォーマンス、それから路上観察にいたるまで、赤瀬川原平の観察眼や思考は街頭で鍛えられた。そう考えると、彼の思考を追体験したあとで私たちがやるべきことはただ一つ、そこで得た視点や手法を、街に出て実践してみることに尽きるのではないだろうか。
(近藤正高)