『江戸の風評被害』鈴木浩三/筑摩選書
健康や災害など生死に関わるもの、お金儲けに関するものなど、強い関心がウワサを生み出し、人々を動かす。今と変わらないそういう現象から江戸の世界を知ることができる本だ。

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ツイッターの普及や東日本大震災後のさまざまな状況があって、ここ最近、デマ風評被害について考える機会って多かったんじゃないかな、と思う。結構まずいデマも多かった。

思えばいつだって、デマやウワサばっかりだ。

「西暦2000年になった瞬間にコンピューターが止まる」って話なんかは、色んな尾ひれがついて、「1999年地球滅亡」みたいな話と合体したりして大変なことに。

「バラエティ番組の企画で、どこまで伝わるか実験してます!」みたいなチェーンメールが流行った時も、「僕には来なかった」と友達に言うと、「あれが来ないやつは友達が少ない」などと言われ、「お前、そこは冷静に分析できるんだな」と思った。

そして、「江戸も負けないぐらいやばかった」という本がある。『江戸の風評被害』だ。江戸時代や経済に関する著書多数、鈴木浩三が書いている。

江戸時代にも大きな地震や飢饉、火山の噴火など、人々が不安になる出来事がたくさん起こった。そのたびに絵や文章、路上パフォーマンスで色んな皮肉や怪情報が飛び交った。

「妖しい星が光るのを見た」「箱根の温泉が水になった」など、新たな自然災害を思わせるウワサもあれば、「水に毒が入っているらしい」「ソバを食べると当たって死ぬ」など、特定の商売や幕府の信用を揺らがす内容のデマも流れた。自然発生したウワサもあれば、陰謀によって流されたものもあったかもしれない。

各ウワサは「もっともらしい原因やエピソード」をともなって、さまざまな尾ひれがついてバリエーション豊かに広がり、人々の情報不足や知識不足によって加速する。あまり知らないことだからこそ「ちょっと科学的な説明が付いていると信じてしまって勝手な創作をしてしまう」という、現代のウワサにも共通するパターンだ。

そしてそのたびに幕府は「お触れ書き」や逮捕処罰を徹底的におこない、火消しをする必要があった。

そういったデマやウワサの基本的構造を踏まえつつ、江戸時代の統治システムや商売のあり方、人々の暮らしぶりなど、さまざまな当時の記録を引きながらたっぷり丹念に読ませてくれる。いつどんなウワサが流れ、何日後にどういう役所がどんな対応をして、ウワサがどう収束したのか。そういう細かい記録を追い、検証していく本書のスタイルがワクワクさせてくれる。

中でもかなり力が注がれているのが、経済に関するものだ。先ほど紹介した通り、江戸経済の本を多数書いているだけあって、かなり詳しい。

江戸時代は金、銀、銭の3種の貨幣が使われ、さらに米も貨幣のように使われていて、米は先物取り引きまでおこなわれていた。そして各地方や業種によってメインで使われている貨幣が異なっていたという。円ドルユーロ、株でやり取りしている現在とほとんど違いがなく、取引のスピードも江戸時代だからといって悠長なものではなかった。

株価や円ドルが乱高下して日銀が介入、みたいなことが江戸時代でも繰り広げられていて、読めば読むほど「これ、ほとんど今と変わらない!」と思えてくる。しかも、出てくるのが「金とか米とか将軍」なので、貨幣価値と物価が連動する仕組みなどが、今の経済を見るよりわかりやすい。

そういった経済要素から身を守ろうと、少しでも他人よりリードしようと、商人や町人が情報収集・憶測をおこなう。買い控え、売り控え、買い占め、貸し控え、などなど。実は根も葉もあるウワサが、「できるだけ儲けたい、損したくない」という気持ちとともに広まってゆく景色が、これでもかというぐらい丁寧に書かれている。これは新書などではなかなかできないボリュームだ。

さらには風評被害の逆、「風評利益」とでも言える事例についても書いている。「ご利益がある」「病気が治る」と言われている神社やお寺に人々が殺到したりするパターンだ。こちらは景気刺激になるので幕府も歓迎したり協力もしている。

風説、浮説、虚説といったウワサは、まるで台風か何かのように、時間軸とともに吹き荒れて去ってゆく。江戸の社会の構造や人々のネットワークを、単なる図式ではなく、時間軸に沿って動く「からくり」のようなものとして読むことができ、頭の中で情景が浮かぶのが楽しい本だ。筑摩書房より発売。(香山哲)