元「羞恥心」の野久保直樹が語る。甲子園の夢閉ざされてから、ヘキサゴン出演まで(前編)
現在は舞台を中心に活躍する俳優・野久保直樹の初めてのフォト&エッセイ『Natural Mind』(三才ブックス)が3月30日に発売された。
写真集パートには、千葉・房総などでロケを行った“旅人”をイメージさせる撮り下ろしやスタジオショットに加え、2009年から2010年にかけて訪れていたニューヨークでのオフショットも多数収録されている。
ところで、2009年から2010年といえば野久保が『クイズ!ヘキサゴンII』で“おバカタレント”として人気になり、ユニット「羞恥心」として大ブレイクした後、突然の休業で人々の前から姿を消していた時期だ。エッセイパートでは、冒頭に「今まで生きてきたことのすべてが伝わる本」と宣言されている。では、野久保直樹はこれまでどのような道を歩んできて、なぜすべてを投げ打って舞台俳優の道を選んだのだろうか? 本書に沿って、じっくりと語ってもらった。
――本の前半は「旅」をイメージした写真が続きますね。
野久保 僕が育ったのは静岡県磐田市というけっこう田舎だったんですけど、そういう昔の自分を映し出したい、というのも『Natural Mind』のテーマでした。この写真のようなのどかな場所で野久保直樹が出来上がりました、という感じですね。自分で言うのも何ですけど、僕、めったに怒らないですし、のんびりしているんです。東京に出てきたら、みんなセカセカしていますよね。僕もすっかり歩くのが早くなりましたけど。
――とはいえ、さっき事務所の近くで電車の写メを撮ってましたよね?(笑) 後ろ姿を見ていて、なんか都会のスピードとは違う、独特のペースを感じました。
野久保 そうですね。僕、何にも考えてないんですよ(笑)。本当にマイペース。取材のために事務所に来たけど鍵が開いてなかったんで、じゃ、電車の写真撮ろうって(笑)。
――まったくセカセカしてないじゃないですか(笑)。
野久保 待てど暮らせど来ないんですよ!
――事務所の人がですか?
野久保 電車が! だからあんまり撮れなかったんですよね……(残念そうに)。
白か黒しかない。グレーが受け入れられない
――エッセイパートには野久保さんの31年の人生がギュッと凝縮されていますが、まずは幼少期の頃のことからお話をお聞かせください。磐田で過ごした少年時代は野球に打ち込んでいたわけですが、その頃ものんびりした性格だったんですか?
野久保 のんびりはしていたんですが、野球のことに関してはのんびりしたくなかったですね。人が寝ているなら、自分は素振りしようとか。
――野球部でレギュラーを掴むため?
野久保 というか、プロ野球選手になるためには当たり前だと思っていましたね。プロ野球選手になることしか考えていなかったので、試合に勝つ、負けるというより、自分がプロ野球のチームの一員になっている姿を想像しながら練習していました。
――プロ野球選手になろうと思ったきっかけは?
野久保 兄貴が少年野球のチームに入っていたから、僕も試合についていって遊んでいたんですけど、どうやら僕のほうがセンスがいいという話になったんですよ。小学校6年生の段階で、人より頭2つぐらい大きくて、パワーも違っていました。少年野球だとランニングホームランが多いけど、僕の場合は外野の頭の上を超すホームランでしたから。なんか周りとは違うな、と感じていたんです。それでプロを目指すようになりました。
――少年野球の練習は忙しかったと思いますが、土日が潰れたり平日遊べなかったりしたのは平気でした?
野久保 ぜんぜん平気でした。でも、中学に入ると遊ぶことが面白くなってきちゃって。遊びたいと思って野球を辞めたくなったときがありましたね。
――それはまた極端ですね(笑)。本に「白か黒しかない。グレーが受け入れられない」と書いてありましたが。
野久保 そうなんですよ。オンとオフしかないんです。そのときはうまく自分がコントロールできませんでしたね。
僕、プライドとかないっス!
――プロ野球選手を目指していた野久保少年ですが、高校3年の試合で敗退して甲子園への道が閉ざされてしまいます。このときに野球そのものを辞めてしまうわけですが、すぐに諦めがついたんですか?
野久保 ずっと自分の部屋にこもって、泣いていた記憶があります。甲子園に行けなかった、これでプロが遠のいてしまう、って。県大会の3回戦ぐらいで負けてしまって、スカウトの人も見に来ていなかったんですね。でも、次の日には憑き物が落ちたようにスッと野球への執着心が消えちゃったんです。
――野球を諦めて、すぐに役者志望に変わったんですか?
野久保 もともと中学生ぐらいの頃から芸能界には興味がありました。やっぱりテレビからの影響は大きかったんですよ。ブラウン管に映し出されるものを見て、自分もこうなりたいな、ああなりたいな、と思っていたりしたので。いつかはああいう選手になりたいな、と思いながら野球をやりつつ、同時に自分もそう見られるような選手になりたいと考えていたんですね。そう考えたら、芸能界も同じかなと思ったんです。一人でも多くの人が自分を見て、笑ったり、勇気づけられたりすればいいな、って。自分が一番やりたいことを考えたら、表現者としての芸能界が一番近いと思ったんです。
――野球をスポーツとして捉えて打ち込む人のほうが多いと思うんですけど、野久保さんの場合は「誰かに憧れられる存在=プロ野球選手」になることが重要だったわけですね。
野久保 小学校でも中学校でも体格とかが飛びぬけていたんですよ。野球部でもキャプテンで後輩からは慕ってもらえるし、一応“憧れてもらえる先輩”的な? ポジションにいれたんですよね。そういう風に見られていなかったら、また違う発想だったかもしれません。
――でも、“憧れてもらえる先輩”だったのが東京に出てきたときは一転して何者でもない自分になったわけですよね。そのことで苦しんだりしませんでした?
野久保 ぜんぜん(笑)。12年やってきた野球をゼロにしてしまうことを、周りからすごく反対されたんですよ。大学行って、社会人野球やって、プロを目指せばいいじゃないか、と言われたんですね。でも、それが面倒くさかった(笑)。だったら他に興味のあることをやりたい。ゼロにして、切り替えた瞬間、「さぁ、やるぞ!」って気持ちになりました。ただ、野球をやってきたことが何かの強みになるとは思っていましたね。
――それにしても「人に憧れられる存在を目指したい」なんて言ってるのに、なぜかイヤミがないですよね。高校野球のヒーローだったりすると、自意識やプライドが大きくなったりするものですけど、野久保さんの場合は……。
野久保 僕、プライドとかないっス!(笑)
――人の視線を意識して生きてきたのに、自意識過剰になってないんですよね。無意識過剰(笑)。じゃ、オーディションやアルバイトの日々も平気でした?
野久保 ぜんぜん苦になりませんでした。お気楽な感じだったんですよ。「行くぞ!」と気合入れて東京に来たわりには、「で、何したらいいんだ?」って感じでしたし(笑)。スカウトされるために竹下通りを何往復もしたりしましたね。当時、そのへんにスカウトがいるって聞いていたので(笑)。安易ですよね、東京にいれば何かあるだろ、と。
――それで何とかなっちゃったからすごいものですよね。
野久保 これも縁のおかげだと思います。
『ヘキサゴン』は自分では何もしていないという感覚だった
――東京に出てきた頃、自分のなりたい芸能人像というのはあったんですか?
野久保 まだ何になりたいか決められなかったですね。自分は何の才能があるのか、まったく把握できていなかったですし。タレントの専門学校でいろいろなジャンルの基礎を学んだんですけど、それでもよくわからなくて。いつの間にか、俳優を目指すようにはなっていたんです。
――そんな中、オーディションをいくつも受けてバラエティー番組に出演するようになり、野久保さんの名前を一躍有名にする『クイズ!ヘキサゴンII』に出演することになります。
野久保 スケジュール帳がそれまではバイトで埋まっていたのが、自分の好きなことで埋まるという喜びがありましたね。今まではオーディションに行って落ちてを繰り返していて、それこそ自分の仕事なんて月に1回あるかないかでしたから。それが毎日埋まるわけです。1ヵ月の間にポツンポツンと3日でもスケジュールが空いたら不安でしたよ。疲れは感じていましたけど、自分が必要とされている喜びのほうが大きかったですね。
――羞恥心は老若男女のファンが全国に大勢いたわけですからね。
野久保 ただ、自分が認められたとは思っていませんでした。番組に必要とされて呼ばれているだけなんだよな、という感じでしたね。自分では何もしていないという感覚だったんです。『ヘキサゴン』は「何かを残さなければいけない」という感覚でやっていなかったんですよ。
――求められたことはやっているけど?
野久保 本当に素で行って、元気と笑顔を全面に押し出していた結果なんです。僕は俳優という意識があったので、バラエティーでも芸人さんやタレントさんのように振る舞わなくてもいいという感覚がありました。自分の直感を信じて、バラエティーをやらせていただいて、それが結果として面白いと言われるようになったんですね。だから、僕は何もしていないのに名前ばっかり広まっちゃって、「これ、どうするんだろうなぁ……?」と思い始めるようになったんです。
(大山くまお)
(後編に続く)
写真集パートには、千葉・房総などでロケを行った“旅人”をイメージさせる撮り下ろしやスタジオショットに加え、2009年から2010年にかけて訪れていたニューヨークでのオフショットも多数収録されている。
ところで、2009年から2010年といえば野久保が『クイズ!ヘキサゴンII』で“おバカタレント”として人気になり、ユニット「羞恥心」として大ブレイクした後、突然の休業で人々の前から姿を消していた時期だ。エッセイパートでは、冒頭に「今まで生きてきたことのすべてが伝わる本」と宣言されている。では、野久保直樹はこれまでどのような道を歩んできて、なぜすべてを投げ打って舞台俳優の道を選んだのだろうか? 本書に沿って、じっくりと語ってもらった。
野久保 僕が育ったのは静岡県磐田市というけっこう田舎だったんですけど、そういう昔の自分を映し出したい、というのも『Natural Mind』のテーマでした。この写真のようなのどかな場所で野久保直樹が出来上がりました、という感じですね。自分で言うのも何ですけど、僕、めったに怒らないですし、のんびりしているんです。東京に出てきたら、みんなセカセカしていますよね。僕もすっかり歩くのが早くなりましたけど。
――とはいえ、さっき事務所の近くで電車の写メを撮ってましたよね?(笑) 後ろ姿を見ていて、なんか都会のスピードとは違う、独特のペースを感じました。
野久保 そうですね。僕、何にも考えてないんですよ(笑)。本当にマイペース。取材のために事務所に来たけど鍵が開いてなかったんで、じゃ、電車の写真撮ろうって(笑)。
――まったくセカセカしてないじゃないですか(笑)。
野久保 待てど暮らせど来ないんですよ!
――事務所の人がですか?
野久保 電車が! だからあんまり撮れなかったんですよね……(残念そうに)。
白か黒しかない。グレーが受け入れられない
――エッセイパートには野久保さんの31年の人生がギュッと凝縮されていますが、まずは幼少期の頃のことからお話をお聞かせください。磐田で過ごした少年時代は野球に打ち込んでいたわけですが、その頃ものんびりした性格だったんですか?
野久保 のんびりはしていたんですが、野球のことに関してはのんびりしたくなかったですね。人が寝ているなら、自分は素振りしようとか。
――野球部でレギュラーを掴むため?
野久保 というか、プロ野球選手になるためには当たり前だと思っていましたね。プロ野球選手になることしか考えていなかったので、試合に勝つ、負けるというより、自分がプロ野球のチームの一員になっている姿を想像しながら練習していました。
――プロ野球選手になろうと思ったきっかけは?
野久保 兄貴が少年野球のチームに入っていたから、僕も試合についていって遊んでいたんですけど、どうやら僕のほうがセンスがいいという話になったんですよ。小学校6年生の段階で、人より頭2つぐらい大きくて、パワーも違っていました。少年野球だとランニングホームランが多いけど、僕の場合は外野の頭の上を超すホームランでしたから。なんか周りとは違うな、と感じていたんです。それでプロを目指すようになりました。
――少年野球の練習は忙しかったと思いますが、土日が潰れたり平日遊べなかったりしたのは平気でした?
野久保 ぜんぜん平気でした。でも、中学に入ると遊ぶことが面白くなってきちゃって。遊びたいと思って野球を辞めたくなったときがありましたね。
――それはまた極端ですね(笑)。本に「白か黒しかない。グレーが受け入れられない」と書いてありましたが。
野久保 そうなんですよ。オンとオフしかないんです。そのときはうまく自分がコントロールできませんでしたね。
僕、プライドとかないっス!
――プロ野球選手を目指していた野久保少年ですが、高校3年の試合で敗退して甲子園への道が閉ざされてしまいます。このときに野球そのものを辞めてしまうわけですが、すぐに諦めがついたんですか?
野久保 ずっと自分の部屋にこもって、泣いていた記憶があります。甲子園に行けなかった、これでプロが遠のいてしまう、って。県大会の3回戦ぐらいで負けてしまって、スカウトの人も見に来ていなかったんですね。でも、次の日には憑き物が落ちたようにスッと野球への執着心が消えちゃったんです。
――野球を諦めて、すぐに役者志望に変わったんですか?
野久保 もともと中学生ぐらいの頃から芸能界には興味がありました。やっぱりテレビからの影響は大きかったんですよ。ブラウン管に映し出されるものを見て、自分もこうなりたいな、ああなりたいな、と思っていたりしたので。いつかはああいう選手になりたいな、と思いながら野球をやりつつ、同時に自分もそう見られるような選手になりたいと考えていたんですね。そう考えたら、芸能界も同じかなと思ったんです。一人でも多くの人が自分を見て、笑ったり、勇気づけられたりすればいいな、って。自分が一番やりたいことを考えたら、表現者としての芸能界が一番近いと思ったんです。
――野球をスポーツとして捉えて打ち込む人のほうが多いと思うんですけど、野久保さんの場合は「誰かに憧れられる存在=プロ野球選手」になることが重要だったわけですね。
野久保 小学校でも中学校でも体格とかが飛びぬけていたんですよ。野球部でもキャプテンで後輩からは慕ってもらえるし、一応“憧れてもらえる先輩”的な? ポジションにいれたんですよね。そういう風に見られていなかったら、また違う発想だったかもしれません。
――でも、“憧れてもらえる先輩”だったのが東京に出てきたときは一転して何者でもない自分になったわけですよね。そのことで苦しんだりしませんでした?
野久保 ぜんぜん(笑)。12年やってきた野球をゼロにしてしまうことを、周りからすごく反対されたんですよ。大学行って、社会人野球やって、プロを目指せばいいじゃないか、と言われたんですね。でも、それが面倒くさかった(笑)。だったら他に興味のあることをやりたい。ゼロにして、切り替えた瞬間、「さぁ、やるぞ!」って気持ちになりました。ただ、野球をやってきたことが何かの強みになるとは思っていましたね。
――それにしても「人に憧れられる存在を目指したい」なんて言ってるのに、なぜかイヤミがないですよね。高校野球のヒーローだったりすると、自意識やプライドが大きくなったりするものですけど、野久保さんの場合は……。
野久保 僕、プライドとかないっス!(笑)
――人の視線を意識して生きてきたのに、自意識過剰になってないんですよね。無意識過剰(笑)。じゃ、オーディションやアルバイトの日々も平気でした?
野久保 ぜんぜん苦になりませんでした。お気楽な感じだったんですよ。「行くぞ!」と気合入れて東京に来たわりには、「で、何したらいいんだ?」って感じでしたし(笑)。スカウトされるために竹下通りを何往復もしたりしましたね。当時、そのへんにスカウトがいるって聞いていたので(笑)。安易ですよね、東京にいれば何かあるだろ、と。
――それで何とかなっちゃったからすごいものですよね。
野久保 これも縁のおかげだと思います。
『ヘキサゴン』は自分では何もしていないという感覚だった
――東京に出てきた頃、自分のなりたい芸能人像というのはあったんですか?
野久保 まだ何になりたいか決められなかったですね。自分は何の才能があるのか、まったく把握できていなかったですし。タレントの専門学校でいろいろなジャンルの基礎を学んだんですけど、それでもよくわからなくて。いつの間にか、俳優を目指すようにはなっていたんです。
――そんな中、オーディションをいくつも受けてバラエティー番組に出演するようになり、野久保さんの名前を一躍有名にする『クイズ!ヘキサゴンII』に出演することになります。
野久保 スケジュール帳がそれまではバイトで埋まっていたのが、自分の好きなことで埋まるという喜びがありましたね。今まではオーディションに行って落ちてを繰り返していて、それこそ自分の仕事なんて月に1回あるかないかでしたから。それが毎日埋まるわけです。1ヵ月の間にポツンポツンと3日でもスケジュールが空いたら不安でしたよ。疲れは感じていましたけど、自分が必要とされている喜びのほうが大きかったですね。
――羞恥心は老若男女のファンが全国に大勢いたわけですからね。
野久保 ただ、自分が認められたとは思っていませんでした。番組に必要とされて呼ばれているだけなんだよな、という感じでしたね。自分では何もしていないという感覚だったんです。『ヘキサゴン』は「何かを残さなければいけない」という感覚でやっていなかったんですよ。
――求められたことはやっているけど?
野久保 本当に素で行って、元気と笑顔を全面に押し出していた結果なんです。僕は俳優という意識があったので、バラエティーでも芸人さんやタレントさんのように振る舞わなくてもいいという感覚がありました。自分の直感を信じて、バラエティーをやらせていただいて、それが結果として面白いと言われるようになったんですね。だから、僕は何もしていないのに名前ばっかり広まっちゃって、「これ、どうするんだろうなぁ……?」と思い始めるようになったんです。
(大山くまお)
(後編に続く)