【全文掲載】亘崇詞のサッカーを考える!第8回「マテ茶で醸成する南米人の仲間意識」【鈴木康浩】
■リケルメの弟が誘拐されたとき監督のビアンチが「俺が身代金を出す」と言った
トヨタカップでボカがミランに勝って優勝したときも夜みんなひとつの部屋に集まって騒いでいましたね。北京五輪でもそうでした。アグエロやリケルメ、マスチェラーノ。ヨーロッパで活躍する有名選手たちも、アルゼンチン代表として集まったときはみんなで同じ部屋に一緒にいました。みんなで一緒にいたい国民なのですかね。それが苦痛でないのでしょう。それから南米では誰かを仲間外れにするということも嫌いますかね。「常に仲間は一緒に! どんなときも道連れに!」という感じですかね。
そういえば昔、リケルメの弟が誘拐されたことがありましたね。このときも、日本では考えられないけれど、当時の監督であるカルロス・ビアンチが、俺が出してやる、命に代えられないだろ、と身代金が払おうとしたんですよ。結局、警察や代理人 交渉人やらが必死にやってリケルメ家のなかで解消し、弟は無事帰ってきたんです。誘拐とまでいかなくても、今でも家族に病人が出て手術費がないとか、困ったときにチームの選手たちはお金を出し合うことをすぐやりますね。もちろんサッカーのチームだけでなく会社の人たちとか近所の人たちだとかもね。うらやましい部分があり驚かされました。今はたまたま運良く自分がお金を持っている、だから出してあげる、という感覚なんですよ。
さらに僕がアルゼンチンに渡ったときに驚いたのは、電車やバスで、お爺ちゃんやお婆ちゃんやお腹が大きい人にすぐ席を譲っていたこと。それをやるのが当たり前の国なんです。日本人みたいに目をつぶって寝ているなんてありえない。そんなことしたら人間じゃねえ、って凄い顔で見られて、すぐ他の人が譲ろうとしてくれるでしょう(笑)。大げさでなくなんとも暖かく、すごく人間的といいましょうか。人道的というか。それがあるがゆえに、道端で困った人や駅近辺でお金を下さい、と懇願する人たちにお金をすぐ渡してしまう。明日はわが身という意識があるからなんです。家族や友人に頼りすぎて、こりゃ駄目だ、という人もまあいますけどね。
■ピッチ上で活かされる、仲間に対する声掛けの按配
そういう日常がグラウンド上でも活きるのかどうかを考えてみるんです。まず日本で見受けられるのは、試合中に「厳しく言い合え」と言うと、その選手が本当に困っていても傷口を開くように畳み掛けて口撃する傾向がありますよね。もちろん練習中にお互い高めあうために厳しく言い合うことはありますよ。でも、南米人は試合中に「こいつ、これ以上言うとテンパるな」とか「逆に優しく言ったほうがいいな」とか、その辺りの按配をうまくわきまえているなあと感じるんです。チームが勝つためには、チームがうまくいくためには、自分はどうすればいいのか、その按配ですね。言いたいことを我慢しないで言うことは大事です。しかし常に状況は変わります。