◆1次リーグの快進撃もむなしく、中田のPK失敗でアメリカに敗れ8強で散った日本

 最終予選から本大会までは10カ月の時間があった。トルシエは2000年から五輪世代の多くをA代表に引き上げ、2002年W杯の土台を着々と築いていた。23歳以上のオーバーエイジ枠使用もすぐに決断。8月には本大会登録18人が明らかにされた。楢崎正剛(当時名古屋)、森岡隆三(当時清水)、三浦淳宏(当時横浜FM)の23歳以上の3人が抜てきされたため、五輪世代からは15人だけ。最終予選の立役者である中田英寿(当時ローマ)、中村俊輔(横浜FM)らは順当に選ばれたが、1次予選・フィリピン戦での負傷から完全に立ち直っていなかった小野伸二(当時浦和)が落選。遠藤保仁(当時G大阪)や吉原宏太(現大宮)ら4人が補欠に回った。

 1次リーグは南アフリカ、スロバキア、ブラジルと同組。2位以内に入らなければ決勝トーナメント進出は果たせない。序盤2戦を確実にモノにする必要があった。

 南ア戦、スロバキア戦は豪州の首都・キャンベラで行われた。南半球の9月は真冬。真夏の日本からやってきた日本代表にとってコンディション調整は確かに難しかった。そんな影響もあったのか、初戦・南ア戦は序盤から押し込まれる展開となった。31分には失点を喫し、ビハインドも背負った。が、豊富な国際経験を持つ選手たちは簡単に折れなかった。

 前半終了間際、中村の精度の高い遠目からのFKを高原直泰(当時磐田)が押し込み、1−1で折り返すことに成功する。この1点がチームに勇気を与え、後半34分に決勝点が生まれる。左を突いた中田英が中央のスペースにスルーパス。これに高原が反応し、確実に2点目を奪ったのだ。

 2−1の逆転勝利から大会をスタートできた日本。次のスロバキアに勝てば、1次リーグ突破が濃厚になる。トルシエは右サイド・酒井友之(当時市原)に代わって三浦淳宏を先発起用。その三浦がリズムを作った。前半は0−0だったが、後半に入ると指揮官は柳沢と酒井を交代。中田英を1・5列目に上げ、中村をトップ下、三浦淳を左サイド、酒井を右サイドに入れる大胆な采配を見せる。これがはまり、後半22分に三浦からのクロスに中田英が頭で合わせてゴール。ついに均衡を破る。7分後には中央をドリブルで持ち込んだ高原からパスを受けた稲本潤一(当時G大阪)が2点目を挙げた。終盤にミスから1点を失ったものの2−1で勝利。これで予選突破決定かと思われたが、ブラジルが南アに敗れたことで、全ては第3戦に持ち越された。

 ブリスベンにおけるロナウジーニョ(当時グレミオ)やアレックス(当時フラメンゴ)を擁するブラジルとの決戦を控え、日本は大きな問題に直面した。中田英と森岡という攻守の要が出場停止になったのだ。森岡の代役は最終予選のキャプテン・宮本恒靖(当時G大阪)がいるから良かったが、問題は中田英のトップ下。トルシエは左サイド起用にこだわってきた中村俊輔の抜てきを決意する。

 チーム発足以来、ポジションに強い不満を抱いていた中村にとって、これは千載一遇のチャンスに他ならなかった。この試合で世界に通用するところを見せれば、頑固な赤鬼の考えも変わるかもしれない……。そう意気込んでピッチに立った彼だったが、開始早々、相手エース・アレックスに先制点を奪われ、焦りと困惑を覚えた。

 早い時間帯にリードしたブラジルは余裕を持った戦いぶりを見せる。俊輔は自由にボールを持てず、創造性も発揮しきれない。いら立ってサイドに流れてはみるものの、やはり相手のゴール前は堅い。ここまで2戦で見せたような流れるような攻撃が影を潜めた日本は、スコアこそ0−1だったが、ブラジルに完敗を喫することになった。「ヒデさん、ダメでした」。

 試合終了直後、俊輔が中田英に言ったのはこのコメントだったという。トルシエは本人には何も言わなかったようだが、これを機に彼をトップ下で使う機会がめっきり減ってしまう。このブラジル戦のアピール失敗も、2002年日韓W杯落選につながる大きなターニングポイントになったといえる。

 痛い黒星を喫したが、何とかグループ2位を確保。ついに決勝トーナメント進出を決める。しかも準々決勝の相手が優勝候補のスペインでもナイジェリアでもないアメリカだったから、トルシエも選手たちもトルシエも喜んだに違いない。「フィジカルに強いアメリカは要注意」と見る者はいたが、日本の4強入りは実現可能だった。

 決戦の地・アデレードは、1998年2月にフランスワールドカップへ挑む岡田武史監督率いる日本代表がキャンプを張った土地。ハインドマシュ・スタジアムは、柳沢敦(当時鹿島)が記念すべき国際Aマッチデビューを飾った思い出の場所だ。1次リーグでノーゴールだったからこそ、今度こそ結果を出したいと本人も意気込んでいたはずだ。