◆中田英寿合流で起きたチームの化学変化 孤高の人に認められた中村俊輔

 小野伸二(当時浦和)の左ひざ内側側副じん帯断裂から1カ月半が経過した8月末。トルシエ監督率いるU−22日本代表が再びJヴィレッジに集結した。久しぶりの合宿で選手たちが意気揚々としていると思いきや、どこか不穏なムードが流れていた。それもそのはずだ。フランス指揮官がイタリア・セリエAのペルージャで活躍する中田英寿を招集する決断を下したことで、多くの選手が「この先、どうなるんだろう…」と不安を抱えていた。

 その筆頭が中村俊輔(横浜FM)だ。桐光学園時代にベルマーレ平塚の練習に参加した際も、98年2月に岡田武史監督率いる日本代表のオーストラリア合宿で初招集された時も、俊輔は中田に相手にされなかった。話し掛けられることもなく、親しく接してもらえなかった。その記憶が強烈過ぎたのか、「ヒデさんが来るとチームの和が壊れるかもしれない」と発言。突出した人間の合流を恐れていた。酒井友之(当時千葉)も「僕は自分から打ち解けられる性格じゃないし…」と困惑し、平瀬智行(当時鹿島)も「ヒデさんのパスは厳しそうですね」と顔を曇らせる。“孤高の人”はチームを壊しかねないほどの多大なる影響力を持っていた。

 それでもトルシエは小野不在のチームに彼が必要不可欠だと判断。9月の韓国との親善試合(東京・国立)で初招集した。しかし年下の選手とのコミュニケーションが苦手な中田は自分から溶け込もうとしない。そんな彼と若手の橋渡し役を務めたのが、キャプテン・宮本恒靖(当時G大阪)だった。93年U−17世界選手権(日本)をともに戦った頃からこの男を知る同い年の宮本は、積極的に話しかけ、パス回しに参加させるなど、献身的にサポートして見せた。その努力が功を奏し、中田はいきなり強烈な存在感を発揮することに成功する。

 この日韓戦での中田のパススピード、正確なキック、シュートへの意欲は間違いなく「異次元の世界」だった。1ランクも2ランクも上のパフォーマンスを目の当たりにした選手たちは目が覚める思いだったに違いない。加えて、トルシエが採った中盤の構成も成功した。稲本潤一(当時G大阪)と遠藤保仁(当時京都)のダブルボランチを中田の後ろに並べ、右に酒井、左に中村を配置する形は予想以上に機能。永遠の宿敵に圧勝し、最終予選に向けて大きな手ごたえを得る。「中田合流でチームが崩壊するのではないか」という危惧は瞬く間に氷解し、トルシエも選手たちも大きな自信を手にした。

 翌10月から最終予選がスタート。カザフスタン、タイと同組に入った日本は、1位にならなければシドニー五輪切符を得られない。「アジア3枠を全て日本が取れる」とさえ言われていたタレント集団だけに、普通に戦えば全く問題ないと見られたが、やはりどんなトーナメントでも入りは難しい。しかも99年10月9日の初戦はアウェー・カザフスタン戦。決戦の地・アルマトイはこの2年前、98年フランスW杯出場を目指していた日本代表がアジア最終予選を戦い、加茂周元監督が更迭されところである。終了間際の同点弾に若かりし日の川口能活(当時横浜M)が「バッカじゃないの」と吐き捨てた因縁の場所で、若きジャパンがどう戦うか注目されたが、選手たちは動じなかった。ピッチの悪さなど環境に気後れすることなく、まず中田が前半のうちにミドルシュートで先制。終盤にも中田のCKから稲本が追加点を奪い、2−0でしっかりと勝ち点3を得たのだ。

 続く17日に行われたタイとの第2戦(東京・国立)は、初戦快勝の原動力となった中田が不在。その影響もあり、やや厳しい序盤を強いられた。相手のベタベタのマンマークに苦しみ、思うようにゴールを奪えない。前半を0−0で折り返した時には、スタジアム全体が嫌なムードに包まれた。しかし後半開始早々、平瀬が貴重な先制点を奪う。不振の柳沢敦(当時鹿島)がメンバー落ちを強いられる中、高原直泰(当時磐田)と2トップを組んだ彼は、最終予選を通じて大ブレイクした。この日の2点目も彼がもたらしたものだった。そして高原が3点目をゲット。この五輪代表では負傷続きで出遅れていた黄金世代のエースも、このゴールでようやく覚醒した。結局、日本は3−1で勝利したが、タイとの実力差は明らかだった。日本の若年層の目覚ましい成長を印象づけた彼らは、シドニー行きに王手をかけた。

 迎えた11月6日の第3戦・タジキスタン戦(東京・国立)は五輪連続出場の懸かる大一番。トルシエは再び中田を呼び戻し、満を持して大勝負に挑んだ。

 実はこの試合直前、中村俊輔は祖父の死に直面していた。が、大事なゲームがあり、合宿を離れるわけにはいかない。いつも自分を理解し、応援してくれた祖父のために、どうしても目に見える結果を残さなければいけない。誇り高きファンタジスタは、普段にも増して闘志を燃やしてピッチに立った。

 だが、日本は信じられないことに、前半のうちに先制を許してしまう。GK曽ヶ端準(鹿島)が精いっぱい伸ばした手も届かず、0−1のビハインドを背負ったまま、折り返すことになる。その展開に中村はいら立った。

「このままじゃ、最終戦のアウェー・タイ戦で予選突破を決めることになってしまう。そんなの嫌だ」と彼はハーフタイムに強く思ったと言う。トルシエも1次予選・香港ラウンドにおけるマレーシアのように、凄(すさ)まじい勢いで彼らを鼓舞してきた。そんな指揮官に力を見せつけるためにも、もはや逆転するしかない。

 後半途中、トルシエはもう1つの手を打った。この日は控えに回っていた高原を切り札として投入。高原・平瀬の2トップに変更した。そして1・5列目に中田を置き、左サイドに入っていた中村をその後ろの真ん中に移動させたのだ。この「超攻撃的布陣」がズバリ的中し、平瀬がゴール。ついに同点に追いついた。

 そこからは中村のワンマンショーだった。終盤の逆転ゴールは、中村の超ロングパスを平瀬が合わせたものだった。その視野の広さ、精度と技術の高さは俊輔ならでは。本人もこれまでやったことのないほど派手なガッツポーズをして見せた。

 終了直前の3点目は彼のFKから生まれる。中田がいる場合は通常、キッカーは彼だったのだが、この時は「お前が蹴れ」と譲られた。高校生の頃からまともに話もしてもらえず「孤高の人」に認められたのは、俊輔にとっても望外の喜びだった。だからこそ、このキックだけは一発で仕留めなければならない。次の瞬間、彼の左足から放たれたボールはゴールネットを確実に揺らしていた。

 祖父に最高のはなむけとなるゴールを決め、さらには予選が始まってから悶々(もんもん)とし続けていたトルシエとの確執にも1つの答えを出した俊輔。さすがの彼も試合後のヒーローインタビューでは目を真っ赤にした。これが大観衆の感動を呼び、聖地・国立には「シュンスケ」コールがこだまする……。この数年後に日本代表のエースナンバー10を背負うことになる彼は、このシドニー最終予選でまた一歩、確実に階段を駆け上がった。

 劇的な逆転勝利でシドニー五輪出場を引き寄せた若きジャパン。消化試合となった第4戦、アウェー・タイ戦も確実に勝利し、4戦全勝で危なげなく最終予選を突破した。今回のロンドン五輪を含めて過去5会の五輪代表を見てみると、予選で全勝したのはシドニーだけだ。それだけ彼らがずぬけた実力を誇っていたということだ。そんなタレント集団には当然、メダルの期待がかかる。「1968年メキシコ五輪銅メダルを上回る結果を残せるのではないか」という声も高まった。トルシエ自身もそれを実現できると思っていたはずだ。しかし、現実はそう甘くはなかった…。